戊辰戦争の「敗者」をたどって

執筆者:北岡伸一2020年11月5日
戊辰戦争直後の会津若松城。この城を望みながら自決した白虎隊の悲劇は歴史に残る

 

 毎年夏の休暇には海外旅行をすることが多い。今年は新型コロナでどこにも行けないので、上越、東北方面に、5泊6日のドライブ旅行をした。最近、明治維新について書いたのだが(『明治維新の意味』新潮選書、2020年9月)、基本的に勝者の側を中央から見たものだったので、敗者の地も訪ねてみたくなったのである。

 その前提に、ごく簡単な大枠の事実経過を示しておきたい。

 鳥羽伏見の戦いが勃発したのが明治元年(慶應4=1968=年)1月3日、将軍徳川慶喜が大坂から船で江戸に戻ったのが12日、江戸城無血開城が4月11日だった。これに不満な彰義隊も、5月15日、新政府軍によって制圧された。

 この間、東北では、藩によって立場が違い、また各藩の中でも様々な意見があったが、5月の初めにかけて、奥羽25藩が同盟を結んで新政府と対抗する構図となった。それに長岡など越後勢が加わって、5月6日、31藩による奥羽越列藩同盟となった。

 しかし、この奥羽越列藩同盟の抵抗は、9月12日仙台藩、22日会津藩、23日庄内藩が降伏して、5カ月で終了した。あとは函館の抵抗が残っただけだった。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。