発酵の季節

執筆者:阿川佐和子2020年11月22日
「豆乳ヨーグルトっていいですよ」(写真はイメージです)

 

(9月28日発売の新潮社『波』10月号より転載しています)

 豆乳に魅了されたのは台湾に行ったときである。

 台湾の人々は朝ご飯を家で食べることが少なく、外へ出かけて豆乳の店に足を運ぶ。豆乳専門店は街のいたるところにあり、いわゆるファーストフード店と同じような存在だ。香港では朝、お粥屋さんへ向かう人が多いのに対し、台湾は豆乳が朝食として好まれていると聞いた。

 台湾の豆乳屋へ行くと、「温かい豆乳」と「冷たい豆乳」のどちらかを選ぶシステムになっている。いわば、コーヒーを頼むと、「ホットですか? アイスですか?」と聞かれるようなものだ。続いて、「砂糖とミルクは?」と問われるがごとく、「甘味? 塩味?」という選択を迫られる。うーむ、迷うね。ではとりあえず「温かい塩味!」

 すると供されるのは、中鉢たっぷりに注がれたアツアツの豆乳と、上には中国式揚げパンの油條と刻みネギ少々と香菜がのっている。店によってはさらに干し海老が入っている場合もある。そして豆乳はなぜかサラサラではなく、かすかにドロンと凝固している。

 「ん?」と思ったら、酢が入っているからだとか。つまり、温めたミルクを飲むというより、できたてのゆるゆる豆腐を食べる感覚だ。

 「なるほどね。だから朝ご飯に打ってつけなのか!」

 好みによってテーブルに備えられたラー油や豆板醤や醤油や胡麻油などで好みの味に調整して食べる。

 「実においしい!」

 こうして台湾の豆乳朝ご飯が大好きになりました。と、帰国したのち原稿に書いたところ、さる豆乳生産会社様からなぜか私のところに豆乳が届くようになった。……すみません。

 だから物書きって得よねえ、豆乳が好きになったって書けば、豆乳が家に届いちゃうなんてねえ、お気楽な商売ねえ……という声が聞こえてきそうで、本当にすみません。私もそう思います。

 でね。お届けいただいている身でこんなことを申し上げるのもナンですが、その量が、二人暮らしの我が家には分不相応にたくさんなのである。「豆乳をもっと好きになって、あちこちに宣伝してくださいね」という生産会社様のお気持は重々了解しつつも、そんなにいっぱい飲めるものではない。まもなく、「そろそろなくなったのではないですか? またお届けしますね」という具合に新たな豆乳が届く。「いえいえ、まだ消費し切れていないのでけっこうです」とお断りするのも失礼なので受け取っておく。するとどうなるか。

 溜まる。

 もちろん、知人友人が訪ねてきたら「豆乳いらない?」と親切そうに持ち帰らせ、仕事場に運んで喜ばれ、そのおかげで売り上げが急激に上がったかどうかは定かでないものの、とりあえず小さな宣伝活動に貢献しているつもりだが、ふっと気づくと賞味期限が迫りつつある。

 とはいえ、密封容器に入っているのだ。問題はない。そもそも賞味期限とは、味が落ちる前までの期限であり、腐るか腐らないかの目安ではないはずだ。そう信じている私にとってはなんの問題もない。しかし、さすがに期限ぎりぎりの豆乳を他人様に差し上げるわけにもいかないので、古いのから順繰りに家に溜まっていくこととなる。

 そうこうしているうち、いよいよ豆乳をハイスピードで消費しなければならない事態と相成った。すでに豆乳鍋は何度かやった。豆乳朝ご飯もたびたび実行するが、毎日というわけにはいかない。パンがいいと主張する家人がいたり、玉子ご飯を食べたい気分になったりすることもある。そしていつしか気持が豆乳から離れる。すると、どうなるか。

 溜まる。どんどん溜まる。

 「うーむ、どうしよう……」

 思案していた矢先、我が家の秘書アヤヤがボソッと呟いた。

 「豆乳ヨーグルトっていいですよ」

 「なにそれ?」

 「市販のヨーグルトの上に豆乳を注いでしばらく冷蔵庫に入れずに放っておくと、固まってヨーグルトになるんです。私、アガワさんからいただいた豆乳で作っています」

 それは名案だ。さっそく私も作ることにした。冷蔵庫からヨーグルトを取り出して、プラスチック容器に移す。その上から紙パック豆乳を、ヨーグルトのおよそ倍量注ぎ、スプーンで軽く混ぜる。真っ白いヨーグルトとやや灰色がかった豆乳がしだいに融合する。あとは蓋をして台所の片隅に放置するだけだ。

 なんだかワクワクしてきた。まるで夏休みの宿題の科学実験をしているようだ。つい先日まで、「夏休み豆苗育成観察」にワクワクしていたが、新たな楽しみが見つかった。しかも発酵にはこの酷暑がもってこいである。サラサラ豆乳が、5、6時間ほど放っておくだけで、みるみるドロリンドロリンのゲル状と化す。

 「おお、固まってきたぞ」

 容器を振ってぶるんぶるん状態を確認した上で、今度は冷蔵庫に入れて冷やす。

 翌朝には、しっかり冷えたヨーグルトが準備万端の状態で待機している。たちまち豊かな気持になる。買ったヨーグルトが3倍に膨らんだということだ。得した感が高い。おもむろに容器の蓋を取り、スプーンですくって器に入れ、そこへキウイとか桃とかバナナとかミカンとかブドウとか、冷蔵庫で眠っていた少々しょぼくれ気味の季節の果物を刻んで入れたり、あるいはジャムやハチミツで味付けしたりしていただくと、まあ新鮮な朝の喜びと元気がふつふつと湧いてくるというものだ。

 すっかりマイ豆乳ヨーグルトブームにハマってしばらくのち、雑誌の仕事でノンフィクション作家の高野秀行さんにお会いした。高野さんは別名「辺境ノンフィクション作家」とも呼ばれ、世界の辺境と呼ばれる、ときに激しく物騒な地域にまで、命の危険を顧みず世にも珍しい臭い食べものを訪ねて旅をし、その体験記を面白可笑しく丁寧に記して生きておられる方だ。どれほど体躯も精神も屈強な人物が現れるのかと思いきや、「初めまして」と挨拶した高野さんは、どう見ても屈強とはほど遠く、どちらかというとヒョロリとしてノホホンとして、ご本人曰く、「胃腸はそんなに強くないほうなんです」と照れくさそうに微笑む人だった。

 それはさておき、高野さんの御著書である『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社刊)も、ご本人のお話も、驚くやら面白いやらつらそうやらの波瀾万丈の連続だった。何が面白かったか、ここで語り始めるときりがないので、興味のある方はご本を買っていただくとして、私にとってもっとも衝撃的だったのは、「日本以外の国は、基本的に納豆を調味料として使う」ということだ。高野さんによると、「納豆そのものをご飯にかけて食べる納豆民族は他にあまりいない」らしい。

 納豆についてはこの連載で以前にも書いた。そもそも私は納豆が「ものすごく好き!」というほどではない。しかし、医者に「あなたは動脈硬化がかなり進んでいる」と言われて不安になっていた折、発酵学の権威である小泉武夫さんにお会いしたところ、

 「それは納豆がいいです。納豆を食べれば血管はどんどん元気になります!」

 かくたるご託宣をいただいて、希望が湧き、以来しばらく毎朝の納豆生活を欠かさずにいた。すると驚くことなかれ、我が腸の活性化が顕著となり、スムーズな日々が訪れたのである。

 こうして阿川佐和子はその後、胃腸も血管も丈夫になり、スムーズで幸せな人生を送りましたとさ……ということにならないのが私である。すなわち、継続力がことごとく欠如しているのだ。もちろん、しばらくは毎日、納豆ご飯を、ときには納豆のみを掻き込む暮らしを続けていたのだが、そのうち、ちょっと飽きた。今日はパンが食べたいと主張する家人がいたり、玉子ご飯にしたい気分になったり、台湾式アツアツ豆乳を食べたり、はたまた豆乳ヨーグルトブームが訪れたりと、いろいろ忙しくしているうちに納豆を買い忘れ、そしてまたもや納豆は、「たまに食べる」存在に降格した次第である。

 そこに現れ出でたるは高野さんだった。継続力はないのだが感化されやすい力には自信がある。そうだそうだ、忘れかけていたけれど、やっぱり納豆だったよねと、昔の恋人と再会し、焼けぼっくいに火がついたような気持になった。

 しかし、今回は元恋人の、今まで知らなかった魅力を発見した。すなわち、「納豆を調味料として使う」という新境地を開拓する楽しみが台頭したのである。

 さらに、納豆は魚醤と対比する関係にあるらしい。すなわち、古代ローマのガルム、タイのナンプラー、ベトナムのニョクマム、そして秋田のしょっつるのいずれもが、魚に塩や香草を混ぜて発酵させて作った調味料であるのに対し、魚を入手するのが困難な山岳地帯では適当な調味料が存在しなかった。まして高価な塩を手に入れるのも難しい。となれば、手近な豆と、藁や枯れ草(西アフリカでは瓢箪を使うそうだ)に生息する納豆菌を近づけて発酵させ、それを料理に混ぜて味を整えるという発想が見出されたのではないかというのである。

 ちなみに高野さんがいちばんおいしいと思った納豆料理はと伺うと、

 「ブルキナファソ(西アフリカ)で食べた『鯉の納豆焼き浸し』。トマトソースがかかっているんですが、トマトと納豆のうま味が混じり合った濃厚な味で、すごくおいしかった」

 聞いた途端に、食べたくなった。しかし、鯉ですか。川魚ねえ。調理したことないなあ。だいいち、「焼き浸し」ってなんだ? 茄子の煮浸しはよく作るが、魚の焼き浸しは作ったことがない。しかし確かにおいしそうではある。他の魚で合うものはないだろうか。いや、肉料理で合うものがなにかあるはずだ。そもそも魚が手に入りにくい土地でこその納豆調味料なのだから。シチューとかカレーに納豆を入れたら、どんな具合になるだろう。

 あれこれ考えているうちに字数が満たされましたので、納豆調味料トライアルについては次回また。
 

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