頗るつきの美味まで

執筆者:阿川佐和子2021年8月1日
 
「夏目家の糠みそ」で漬けた糠漬け、お味が気になるところ(写真はイメージです)。

 糠味噌を漬け始めた。

 ことの発端は、半藤一利さんが亡くなられたからである。

 半藤さんとは僭越ながら何度か雑誌上で対談し、その後半藤さんのお知恵と経験を頼りに『昭和の男』という対談本を出版したこともある。舌鋒鋭く、合間に江戸っ子気質のべらんめえ口調も加わって、いかに日本の敗戦処理が稚拙であったかとか、明治の男がみんな偉いわけではなかったとか、しかし昔の軍人の中には今村均氏のごとく、赴任先のインドネシアの人々を大事にし、戦後は部下の苦悩を死ぬまで背負った崇高な方もおられたというような、貴重な話をたくさん拝聴した。

 ひとえに海軍贔屓であった父、阿川弘之の教育のもと、思想に多少の偏りがあった私は、陸軍にもこんなに立派な方がいらしたと知り、この歳になって知ったこと自体が情けないけれど、半藤さんの胸の透くような語り口を耳にしながら何度も感動の涙を流した。

 その歴史の代弁者たる半藤さんが亡くなられてしばらくのち、半藤さんの古巣であった週刊文春誌上にて、奥様にお会いする機会を得た。断りを入れるまでもないが、奥様の末利子さんは夏目漱石の孫であらせられる。事前に編集部から届いた資料の中には、ご主人様に関するものだけでなく、夏目家について奥様ご自身が綴られたエッセイ本なども含まれていた。拝読すると、その文章の痛快なこと。ご主人様の舌鋒を上回るスカッとした物言い、というか書きぶりに感服した。さらにご夫婦の力関係が、予想外だったことに驚いた。文章のみならず、その後実際にお会いして奥様の「主人は私に絶対服従なの」という確たる証言を得て、もはや亡きご亭主様を偲びつつもお腹を抱えて笑い転げた。

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