岸田文雄氏は「危機の指導者」になれるのか:チャーチルの危機管理から学ぶ「3つの鉄則」
未曾有の国難。
自民党新総裁に選ばれた岸田文雄氏は、新型コロナ禍に苦しむ日本をそう表現し、「国民が心をバラバラにされてしまっている状況」に危機感を募らせた。総裁選直後に語った「国民の声をしっかり聞く」「政治の説明責任を果たす」という決意は、リーダーとして国民に語りかける言葉を持たなかった前任者への、強烈なアンチテーゼだと言えるだろう。
だが、菅義偉首相が去っても「国難」は続く。
冨田浩司駐米大使は著書『危機の指導者 チャーチル』の中で、危機の指導者に必要な3つの資質を挙げている。
(1)コミュニケーション能力、(2)行動志向の実務主義、(3)歴史観。それは、第100代首相に就任する岸田氏が備えるべき資質ともなるはずだ。以下、同書より一部抜粋・再編集してお届けする。
あらゆる場面で行動する姿を見せるリーダー
(1)コミュニケーション能力
指導者が危機に際して最初に取り組むべき課題は、目的意識の明確化である。
戦争にしろ、天災にしろ、本来危機において国家が目指すべき目的は明らかなはずである。しかし、実際には様々な事情によって国民の間に迷いが生じることがある。自らがおかれた境遇が受け入れられずに不満をぶつけたり、自己逃避に陥ったりすることもあろう。
第2次大戦当初の英国が正にその例であり、いかなるコストを払ってでも戦争に勝利する、という目的を明確化したチャーチルの演説は、国民の迷いを払拭し、その総力を結集する上で計り知れない意味を持った。のみならず、彼の雄弁は、ドイツとの闘いを、自由民主主義と暴政、善と悪、という対照の中で捉えることで、国民に戦争の大義を信じ込ませることにも成功した。
グラッドストーンやディズレイリを手本とする彼の演説術は、大戦前の段階で既に時代遅れとなりつつあった。戦間期の聴衆は、大時代的なチャーチルのレトリックより、ボールドウィンやチェンバレンのような平明な語り口を選好した。未曾有の国難によって彼の言葉が再び国民の心の琴線を揺さぶるようになったことは、彼にとって幸運であった。
さらに重要なことは、チャーチルにとっては言葉のみならず、自らの存在自体がコミュニケーションの手段であった点である。
チャーチルは、第2次大戦中の戦争指導者の中では、疑いなく最もヴィジブルなリーダーであった。議会での討議、空襲後の被害の視察、前線での部隊の激励、首脳外交といった、ありとあらゆる場面で行動する姿を見せることで、リーダーシップがどこにあるかを国民に示し続けた。
このことは、国民に対して安心感を与えるばかりでなく、指導者と国民の一体感を強化する助けとなった。大戦中、チャーチルがロンドン市内を視察する際、彼と出自、境遇を全く異にするスラムの住民からも「ウィニー爺さん」と声がかかるようになったこともこのことを裏付ける。
「独裁」「独善」に陥らなかったのはなぜか
(2)実務主義
チャーチルは国民に対する演説において荘重なレトリックを駆使する一方で、実際の戦争指導においては徹底的な実務主義を貫いた。
危機における指導者の最も重要な役割は、大きな戦略的判断を下すことにある。
しかし、実際の危機においては、小さなものから大きなものまで、数十、数百の課題が毎日のように指導者の決断を求めて生起する。瑣事にとらわれ、機能不全に陥ることは、指導者として戒めるべきことであるが、現実には連日生起する夥しい数の課題を処理する能力がない指導者に、大きな戦略的判断を下すことを期待することは難しい。
しかも、危機においては、不作為のリスクは作為のリスクを圧倒的に上回る。指導者による決定の停滞は国家組織全体のモラールの低下にもつながるからである。「即日実行」のモットーは、正にこうしたリスクを意識している。
チャーチルは目の前にある問題をすべて解決しなければ気がすまない性分で、政治家としては随分損もしたが、こうした性格は、長年の行政経験とも相まって高度の実務能力を約束した。
また、彼がダーダネルス海峡突破作戦の失敗から学んだ教訓は、危機において国家を指導するためには、指導者が能力を有するだけでは不十分であり、こうした能力を最大限発揮するための仕組みを作っていく必要があるという点である。第2次大戦に際し、彼はこの教訓を踏まえ、体制、人事、情報など戦争指導のあらゆる側面に目を配り、自分を活かしきる仕組みを構築した。
その上で、チャーチルが直面した課題は、徹底した実務主義を、戦争指導体制に関与するすべての関係者の間に浸透、貫徹させることにあった。彼が自分と部下に課した義務は、困難な中にあっても、常に問題解決のために現実的で、行動志向の姿勢で臨むことであったが、このことは、当然のように見えてなかなか難しい。人は、問題が難しければ難しいほど、なぜ解決策が見つからないか、口実を探すことに時間を浪費しがちだからである。
秘書官を務めたコルヴィルが回想するとおり、彼の首相就任は、公僕をして廊下を走らせ、定時の勤務時間が消えてなくなるような、インパクトを与えた。しかし、こうしたエネルギーを危機克服の力となるよう方向付けていく努力は、彼の戦争指導において重要な位置を占め続けた。結果的に彼が構築した体制が、独裁や独善に陥らなかったことは、彼がこの点において成功したことを意味する。
筆者は、第2次大戦中、英国における戦争指導で最大の貢献を果たしたのがチャーチルであれば、米国における最大の功労者は、ルーズベルトでもなく、アイゼンハワーでもなく、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルであったと考える。そのマーシャルが執務室の机に上に置いたプレートには、「問題と闘うな。決断しろ。(Don’t fight the problem. Decide it)」と書かれていたと言う。
一方、チャーチルが戦時中部下に宛てたメモランダムの中に、「最良の解決策を示してくれ。問題の難しさを議論する必要はない。難しさは最初から判りきっている」という言葉がある。
同時期に大西洋をはさんで軍を指揮した米英両国の戦争指導者が、ほぼ同じ言葉で問題解決のための現実的姿勢を慫慂していたことは、きわめて示唆に富む。
歴史を理解し、信頼する
(3)歴史観
危機は、夥しい数の現実的課題を提示すると共に、時として指導者の国家観そのものを試す。
危機において歴史観を持つことは、前例を墨守することや変革を忌避することを意味しない。それはむしろ、指導者が国家の存亡を左右する選択を迫られた時に、国家のあり方と国民についてどれだけの理解を持ちながら決断を下すか、という問題である。
国家存亡の危機においてぎりぎりの政治的決断を迫られた時、チャーチルの思考は、現実的解決策を懸命に模索する一方で、歴史にも啓示を求める。チェンバレンが宥和政策を進め、ハリファックスがヒットラーとの講和の糸口を模索しようとする時、彼らの念頭に浮かぶのは第1次大戦の悪夢と大恐慌の窮状に倦んだ国民の顔であった。しかし、チャーチルの脳裏には、ドレーク、ジョン・チャーチル、ネルソン、ウェリントンらと共に大英帝国の栄光を築いた先人の姿が映し出されるのである。
チャーチルの歴史観とチェンバレン、ハリファックスの現実主義のいずれが正しかったは、結局のところ結果論でしか判断できない。しかし、歴史学者のリンダ・コリーが、英国人のアイデンティティーの形成過程を描いた名著『英国人(Britons)』の中で行う次の指摘は、チャーチルの歴史観が単なる過去への憧憬でないことを示唆する。
すなわち、コリーによれは、英国人の愛国心の起源は、大陸から迫り来る旧教勢力の脅威に対抗してプロテスタント信仰を守り抜こうとする決意に求められる。そして、彼らの心の中にはそうした戦いを通じ、自らが選ばれた民族であるという、心の平安が芽生えたというのだ。
チャーチルは、同世代の多くの政治家とは異なり、こうした歴史を理解し、信頼していた。ミュンヘン危機の時、そして第2次大戦初期の暗黒の日々にチャーチルが頼りにしたのは、こうした歴史に裏打ちされた英国人の強靱さであろう。
彼の歴史への信頼は、究極的には国民への信頼であった。1945年5月8日、ドイツ降伏の日、ホワイトホールの保健省のバルコニーに立ったチャーチルは、集まった群集に向かって、開口一番「神の祝福を。これはあなた方の勝利です」と叫んだ。
そうしたチャーチルの信頼に、国民もよく応えた。1965年のチャーチルの国葬において、英国国民が示した圧倒的な愛情は、自分たちを信頼してくれたことに対する感謝の現れであった。両者の間でこうした信頼関係が構築されたことが、チャーチルのリーダーシップを成功させる決定的要因となった。
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冨田浩司(とみた・こうじ)
1957年、兵庫県生まれ。東京大学法学部卒。1981年に外務省に入省し、在英国日本大使館公使、在米国日本大使館次席公使、北米局長、在イスラエル日本大使、在韓国日本大使などを経て、2020年から在米国日本大使に就任。英国には、研修留学(オックスフォード大学)と2回の大使館勤務で、計7年間滞在。文筆家としても知られ、著書に『危機の指導者 チャーチル』、『マーガレット・サッチャー:政治を変えた「鉄の女」』(2019年山本七平賞受賞)がある。
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