朱子――封建主義を招いた「道学者先生」(下)

最強の最小帝国――宋

執筆者:岡本隆司2021年10月23日
朱子(左)がまとめた四書の解釈書『四書集注』(右=国会図書館HPより)

 ようやく主役の登場である。朱熹、字(あざな)は元晦ないし仲晦、別号はたくさんあって、考亭・紫陽・晦庵・晦翁・遯翁などとよばれた。前回冒頭の引用文では「晦庵」、よく用いられたものの一つである。本籍はいま江西省に属す徽州の婺源県、徽州は別名を「新安郡」といったので、朱熹も新安の人と自称した。

朱熹という人

 もっとも、出生地は異なる。朱熹は1130年9月15日、まだ南宋政権の帰趨も定まっていないさなか、現在の福建省の尤渓県で生まれた。父の朱松が当時、中級官僚として福建の地方官に任じていたからである。育ったのも福建、初任も福建の地方官、生涯の活動も福建が中心で、とにかく縁が深い。そのため朱子の学問を「閩学」ともいう。「閩」とは福建の別名である。

 南宋の政権が確立すると、朱松は召されて中央の官職についたけれども、1140年に官を辞し、三年後に47歳で歿する。時に朱熹は14歳、朱松は友人の劉子羽に後事を託した。朱熹はその指導のもと、福建の崇安県・建陽県を転々としながら受験勉強をした。そのかいあって、19歳で科挙の最終試験に合格する。

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