人間の善と悪、そして過去と未来を読書で行き来する

2021年 私の読書

執筆者:青木薫2021年12月28日
 

カティ・マートン(倉田幸信・森嶋マリ訳)『メルケル 世界一の宰相』(文藝春秋、2021)

カティ・マートン(倉田幸信・森嶋マリ訳)『メルケル 世界一の宰相』(文藝春秋、2021)

 16年の長きにわたりドイツ首相を務めたアンゲラ・メルケルが、この12月、ついに政界を引退した。そのタイミングで刊行された、今読むべき力作。著者カティ・マートンは、ハンガリーで生まれ育ったアメリカのジャーナリストで、夫は元駐ドイツ大使。東ドイツに育ったメルケル同様、ソ連の衛星国家(それは密告システムの網の目が張り巡らされた警察国家だ)出身であることは、メルケルの素顔と心情に迫るうえで役立ったようだ。

 本書を読むと、メルケルはヒトラーの対極と言うべき政治家だったということがよくわかる。派手なセリフで人々の心を動かすこと(それは煽動と地続きだ)を嫌い、ファクトで説得し、結果で判断してくれというのがメルケルなのだ。独裁者やデマゴーグが世界政治の舞台で派手に立ち回る現在、メルケルが長らくヨーロッパにいてくれたことの意義をあらためて思い知らされる。彼女が去った今後、世界はどうなっていくのだろう? 

 とはいえ、本書は、メルケルの半生を描くだけの単なる伝記ではない。マートンは、メルケルの弱点や欠点も鋭く指摘し、メルケルが捉え損ねた情勢変化もしっかり分析してみせる。ジャーナリストとしてのそのスタンスこそが、本書の説得力の源なのだろう。

ライザ・マンディ(小野木明恵訳)『コード・ガールズ 日独の暗号を解き明かした女性たち』(みすず書房、2021)

ライザ・マンディ(小野木明恵訳)『コード・ガールズ 日独の暗号を解き明かした女性たち』(みすず書房、2021)

 1930年代のアメリカは、「紳士は他人の親書を盗み見たりしないものだ」というスティムソンの方針にのっとり、暗号解読には消極的だった。その姿勢を一変させたのが、日本による真珠湾奇襲攻撃である。その後アメリカは暗号解読に邁進し、太平洋戦線では山本五十六の乗った戦闘機を撃墜し、南方の日本軍の補給路を寸断した。第二次世界大戦における暗号戦の重要性はよく知られているが、その主力が若い女性たちだったことは、これまで知られていなかった。

 本書の著者ライザ・マンディは、新たに公開された資料の読み込みと関係者への丹念な取材にもとづき、女性暗号解読者たちの姿を鮮やかに描き出す。映画のシーンが続くような記述は、「いったいどうやって取材したの?」と思うほどだ。男手が足りない戦時中は、事務職や工場だけでなく、インテリジェンスの分野にも女性が進出する契機になったのだ。同じ頃、日本の女性は、千人針や竹槍訓練をやらされていたかと思うと、あまりの無策に溜息が出る。

ルトガー・ブレグマン(野中香方子訳)『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』(上・下)(文藝春秋、2021)

ルトガー・ブレグマン(野中香方子訳)『Humankind 希望の歴史 下 人類が善き未来をつくるための18章』(上・下)(文藝春秋、2021)

 本書は、性善説の観点に立つ本、と紹介されることがある。しかしそうではない。ブレグマンは、人間には良い面と悪い面が両方あるということを、形を変えて繰り返しはっきりと述べている。そのうえで、どちらの面が前面に出てくるかを決めるのは、われわれ自身だと言うのだ。われわれが選び取り、こつこつと栄養を与え続けたほうの面が、大きく育つのだ、と。

 とはいえ、この世界には人間の良い面を覆い隠す仕組みが、幾重にも張り巡らされている。偏ったSNS、悪いニュースに飛びつくメディア、バイアスまみれの心理学研究……。本書を読み進めるうちに、人間の良い面に栄養がゆきわたるような世の中にするなんて、到底ムリだと、私はだんだん悲観的になっていった。ところが、本書の終盤になって、ハタと気づいたのだ。私は性悪説の信奉者ではないにせよ、世界を変える一人ひとりの力を信じていないのかも? ブレグマンは、あなたや私の力を信じている。そしてそこにこそ、希望を見ているのだ。

 18の章はどれも非常に刺激的で、たとえあなたが筋金入りの性悪説の信奉者でも、驚いたり呆れたりしながらぐいぐい読み進められるだろう。年末年始の読書に、強くお勧めしたい。

ブライアン・グリーン(青木薫訳)『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』(講談社、2021)

ブライアン・グリーン(青木薫訳)『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』(講談社、2021)

 私の訳書なので宣伝めくが、ブライアン・グリーンの最新作の邦訳が出た。『エレガントな宇宙』をはじめ、最先端の物理学の紹介者として高い評価を得てきたグリーンだが、このたびは満を持して、人間存在とわれわれの知識の総体を見はるかす大作を世に問うた。

 ここに描かれるのは、時間の始まりから終わりに至る宇宙の進展を背景として、ほんの一瞬、舞台上で演じられる生命と意識のドラマだ。生命の誕生、人間の社会性や言語の起源、意識とは何かといったホットな研究の最前線を訪ね、芸術や宗教の役割を探る。その舞台で繰り広げられるのは、人間を人間にしている営みだ。宇宙の時間スケールで見ればほんの一瞬、現れては消えるその営みが、われわれを真に特別なものにしているのかもしれない。

 グリーンは、斬新な自説を華々しくぶち上げるタイプではない。むしろ知的に誠実な信頼できる案内人として、人間の知の到達点へわれわれをいざなう。心と頭に深呼吸させてくれるような一冊。

上島弘嗣『ドクターうえしまの塩切り奮闘記 循環器疫学の専門家が実践する究極の食塩無添加生活』(ライフサイエンス出版、2021)

 一般的な減塩食は、実効性が疑わしいと私は思っている。少しぐらい調味料を減らしたところで、少し多めに食べてしまえば元の木阿弥だからだ。そのため、減塩食では、調味料も食材もきちんと計量し、食べる分量も守らなければならない。それに対してドクターうえしまの食塩無添加生活は、ごくシンプルだ。全体をしょっぱく味付けするのをやめるだけで、食べる分量は気にしなくてもよい。蕎麦つゆもうどん汁も(その正体は黄金色のお出汁だ)、全部飲み切ってかまわない。

 実は私、この本に触発されて食塩無添加生活を始めて半年になる。その結果、むしろ味や香りを楽しめるようになったように思う。概算してみると、このスタイルの食生活では、一日の塩分摂取量は5グラム前後になるようだ(多くの食材は、それ自体に塩分を含んでいるため、塩や醤油を加えなくても塩分は摂取する)。そして一日5グラムというのは、WHO(世界保健機関)が推奨する塩分摂取の目標量なのだ。つまり、食塩無添加生活は、変わり者や病人の残念な食生活ではなく、誰にでも勧められる美味しい生活なのである。本書は、そんな食塩無添加ワールドへの、信頼できるゲートウェイになってくれるだろう。

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