19世紀末、ペスト菌を発見してパンデミックの収束に大きな力を果たした北里柴三郎
19世紀末、香港から広がったペストのパンデミックに立ち向かい、その収束に力を尽くした北里柴三郎。彼が生涯掲げた「国民の健康と性命を守る」という信条が、現代日本の新型コロナ対策には決定的に不足している。

 2019(令和元)年11月22日、中国中央部武漢市での感染確認に端を発する新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、世界の累計感染者数2億7813万人、死亡者数538万人に達するなど(2021年12月24日現在、米ジョン・ホプキンス大学調べ)、21世紀以降最悪のパンデミックとなった。

 感染症はこれまでも様々な形に姿を変えながら、繰り返し人類に災禍をもたらしてきた。わけても19世紀末に起きたペストの世界的流行は、今日の状況と酷似する。

19世紀末のパンデミックを収束させた日本人

 1894(明治27)年3月初め、清国(現在の中国)南東部で原因不明の感染者が続出し、対岸の英領香港に飛び火。多くの香港市民が黒死病(14世紀のペストの俗称)に似た症状をあらわし、次々と謎の死を遂げた。このとき、日本政府の命を受けて感染地の香港に入ったのが北里柴三郎(1853~1931)だ。

 北里は、今日のような防護服はおろか感染症から身を守る方法さえ分からなかった時代に感染地に入り、世界で初めてペスト菌を発見することに成功した。人類が永年死病として恐れてきたペストの正体を突き止め、その後の感染対策に主導的な役割を担ったのだ。

 私は人類と感染症との終わりのない闘いの実相を浮き彫りにし、今日の新型コロナウイルス感染症に正しく対峙するための知恵と教訓を得るために、北里柴三郎の足跡を追った。そうして、今般上梓したのが『北里柴三郎─感染症と闘いつづけた男』(青土社)である。

感染症と闘いつづけた男

 

 感染症対策で第1の課題は、感染症の原因である病原体を速やかに特定することだ。それによって初めて、その感染症の特性に応じた防疫体制を講じることができるとともに、適切な治療法や治療薬を開発することができるからだ。当時の日本政府の対応は素早かった。

 黒死病に似た疫病が香港で発生したことを確認した在香港日本領事は東京の外務省に打電し、その報に接した内務省衛生局(現在の厚生労働省)は、香港からの船舶の入港禁止と検疫による水際対策を強化。さらに、ときの伊藤博文(第2次)内閣は黒死病調査団の香港派遣を決議する。このとき、日本初の海外調査派遣団の一員として抜擢されたのが北里だった。

 北里は香港に着くと直ちに病原体を特定する研究に着手し、感染者の検体から世界で初めてペスト菌を分離培養することに成功する。ペスト菌発見の快挙をきわめて短期間のうちに成し遂げた要因は、病原体の特性を的確に捉えた北里の周到な計画と緻密な実験手法にあった。

 香港から帰国した北里は、感染症予防の大切さを担当大臣に訴え、水際対策の徹底、船舶や列車の検疫、感染地域の消毒、隔離病床の確保、営業損失費用の支給、上下水道の整備などの必要性を所管官庁の役人に説いてまわった。その甲斐あって、北里の提言を網羅した「伝染病予防法(法律第36号)」が1897年に公布・施行され、これによってわが国の防疫体制は一応の整備をみる。

 一方、北里はその後もペストの研究を進め、ペストの定義から感染経路、消毒、診断、治療法に至るまで、ペストに関する最も詳しい綜説『ペスト(原題:PLAGUE)』(英文)を上梓。同書は現代医療のバイブルとして世界中の多くの医学者に読まれ、ペストの治療と予防法の啓蒙・普及を長年牽引した。

 19世紀末に香港で起きた史上3度目のペストのパンデミックは、国際貿易都市・香港が発生地となったために、貨物船に紛れ込んだネズミ(宿主)を介して世界各地に感染拡大し、死亡者数は約1000万人と推定される。他方、6世紀のローマ帝国で起きた1度目のパンデミックと14世紀の中世ヨーロッパで起きた2度目のパンデミックの死亡者数を合わせると、少なく見積もっても1億人以上と試算される。

 つまり、香港で起きた3度目のパンデミックの死亡者数は、交通手段の発達した国際化の時代にあったにもかかわらず1000万人と、それ以前の2度のパンデミックに比べてはるかに少ない犠牲者数に抑えることができた。その最大の理由の1つに、北里がペスト菌を発見したことに留まらず、さらに研究をつづけ、予防や治療などの知見を世界各国に積極的に普及させたことが挙げられる。

 当時、北里柴三郎のまわりには、生涯交友のあった陸軍軍医森林太郎(鷗外、1862~1922)や帝国大学医科大学長の青山胤通(1859~1917)、内務省衛生局長後藤新平(1857~1929)など、多くの著名な医学者たちがいた。また世界に目を転じると、北里の師ロベルト・コッホ(1843~1910)をはじめとするさらに多くの優れた医学者たちがいた。そのなかで、なぜ北里は世界で初めてペスト菌を発見し、人類が最も恐れたペストを抑え込むことができたのか。その理由を探るために北里の79年に亘る生涯を丹念にさかのぼると、彼が青年時代に医学を志した動機にたどり着く。

北里の原点『医道論』

 北里は郷里熊本で弟妹などの親近者が流行り病で次々に死んでいくのを見て、1人でも多くの命を救いたいと願い、医師になるために東京医学校(現在の東京大学医学部)に進学する。そして在学中、北里は医学を志した心情を『医道論』と題する論稿に書き残している。

 北里の医道論を要約すると、「国の基本は国民の健康にあり、医学の基本は人びとが健康を保てるように性命を病気から守り、病気を未然に防ぐ」ことにある。以下に、『医道論』の一節を抜粋する。

「医の真の在り方は、大衆に健康を保たせ安心して職に就かせて国を豊かに強く発展させる事にある。人が養生法を知らないと身体を健康に保てず、健康でないと生活に満たせる訳がない。人民に健康法を説いて身体の大切さを知らせ、性命を病気から守り、病気を未然に防ぐのが医道の基本である。」(『医道論』北里柴三郎 述、明治11年)

 青年時代に医学を志した北里の正義感にあふれたその想いは、『医道論』として結実し、その精神は北里のその後の人生を貫く信条となった。そして、国民の健康と性命を守るために、ときには自身の性命を賭して研究に心血を注ぎ、生涯を通して感染症と闘いつづけたのだった。

 振り返って、今日のコロナ禍における日本の状況を、もし北里が見たらどう思うだろう──。

 日本の製薬企業とそれらを所管する厚生労働省は、新型コロナウイルスワクチンの国際開発競争に完敗した。また、日本政府はファイザー社(Pfizer, Inc. 米ニューヨーク)やモデルナ社(Moderna, Inc. 米マサチューセッツ)が逸早く開発に成功したワクチンの確保・接種に関して、イスラエルを含む諸外国から大きく遅れをとり、多くの国民の性命が奪われる結果を招来させた(2021年12月24日現在の日本の累積死亡者数1万8386人、厚生労働省調べ)。

 さらに、日本政府の新型コロナウイルス対策に対して、時短営業やイベント停止等の感染対策とGoToイートやGoToトラベル等の経済対策を、長期的展望を示すことなく無作為に連発するだけだとの批判が多くの国民から寄せられた。また、トレードオフ(二律背反)の関係にある感染対策と経済対策に関して日本政府は優柔不断な対応に終始し、かえって経済の低迷を長期化させたと否定的に評価する専門家も多い。

「責任と矜持」はどこに

 こうした状況のなか、かつて世界から認められ、「感染症学の巨星」と呼ばれた北里の行動を振り返ることは大いに意味があるだろう。

 香港で感染が初めて確認されてから僅か2カ月後の1894年5月、明治政府は香港で発生したペストを、日本をはじめとする世界各国に感染拡大させないために調査団の派遣を決議する。翌月(同6月)、明治政府の命を受けた北里は世界に先駆けて香港に赴き、早くも同月ペスト菌を発見する。さらに北里は感染経路や防疫方法の研究を進め、ペストの早期収束を図るとともに、治療法の研究などを通して人類の救命に大きな貢献を果たすのだ。

 現今の新型コロナウイルス感染症の諸対応を見る限り、少なくとも明治の日本政府と令和の日本政府の感染症に対する対応の速さとその的確さには雲泥の差があることは明らかだ。

 北里が今日の多くの優れた医学者たちと比して、抜きん出ていたものとは何か。──わけてもその最も大きなものの1つは、畢竟、北里が青年時代に抱いた1人でも多くの人びとの性命を救いたいという使命感だ。言い換えれば、医学を志した当初の熱い想いを終生変わらず持ちつづけたことにある。

 北里が活躍した明治と現今の令和の時代の間には100年余りの隔たりがあり、両者には政治体制や行政機構などに大きな違いがある。けだし、最も大きな違いは感染対策をおこなう当事者の精神にこそある。

 コロナ禍のいま、為政者ならびに医学者の「責任と矜持」が問われている。

 

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