李卓吾――「儒教の叛逆者」(下)

挫折する近代――明

執筆者:岡本隆司2022年2月26日
吉田松陰は李卓吾(左)を愛読したとされ、『焚書』から抜き書きした『李氏焚書抄』が今も残る(右=京都大学附属図書館蔵

「非常に極端な異説を立てた」、「一種の過激思想」を述べる著述をはぐくんだ芝仏院での生活は、「終日読書ばかりで、書物を手から放さず、執筆の手をやめることのない毎日、門を閉ざしてとじこもり、多くの書物を著して、人に接する暇も、人に教える暇もなかった」というのが、李卓吾本人の述懐である。さしあたっては、「人に接」して「人に教える」講学を事としたはずの陽明学者らしからぬ、「読書ばかり」という生活・活動のありように着目したい。

「童心」

 さてその「極端」で「過激」な「思想」の根本にあったのは、「童心」概念である。生まれながら、自身の内にある心のあるがままという意味であり、それが「真」の心にほかならない。『焚書』に収める「童心説」という文章に、

童心とは仮を根絶し真に純化したものである。……もし童心を失うと、真の心を失う。真の心を失うと真の人ではなくなる。

 と定義する。「仮」とは、借り物・ニセ・エセの意で、もちろんホンモノ・真実を意味する「真」の対概念である。「童心」がなくなれば、ホンモノの心が失われて、借り物・ニセの人ができあがる、というわけで、李卓吾が最も憎んだのがこの「仮」、自身のホンモノの心情・思念ではない、外来の借り物、自身を偽ったニセであった。

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