康有為――不易の思想家(下)

甦る近代の変革――清末民国

執筆者:岡本隆司2022年3月26日
光緒帝(左)の全面支持で進められた康有為(右)を中心とする変法運動は、わずか100日ほどで挫折したが――

 

 北京に集まった1000名をこえる科挙の受験者は、下関条約調印の知らせがとどくと、日本との停戦に抗議し、軍備にとどまらない内政・制度の変革をうったえる上書をこもごも政府に提出した。康有為もそのうちの1人に名を連ねている。やがて自らの学説を活用して有力な「変法」の企画者となり、主張をとなえるだけではなく、さらに政治的な実践にも影響を及ぼそうとした。

運動

 康有為がとなえた「変法」とは主に、明治日本をモデルにした制度改革である。改革は悪だという通念があるから、「変法」を正当化するため、孔子を改革者と位置づけた。公羊学にもとづく未曾有の構想である。

 しかも「変法」を宣伝するため、各地に「強学会」「保国会」などの結社を発足させ、『強学報』や『時務報』といった機関誌を発行した。多くの下級官僚と知識人一般を直接のターゲットにしたもので、「中華帝国」の軌道でいえば、明末に旺盛だった集会・講学・出版の復興であり、世界史的にいえば、西洋流の政治団体・ジャーナリズムの組織でもある。李鴻章ら少数の地方大官がとりくんだ従前の改革事業とは、この点で顕著に異なっていた。

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