モニタ越しの一方的な授業、新たな友人との出会いもなく、思い描いていたキャンパスライフとはほど遠い生活を強いられた大学生も少なくなかった(写真はイメージです)
コロナ下で課せられたさまざまな行動制限は、若い世代の生活に暗い影を落とした。命を救うためという旗印のもと、一律に制限を課すことは果たして「正義」なのか。「世代間の公平」について法哲学者が改めて問う。

青春時代をコロナで塗りこめられた若者たち

〈 僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない〉

 ポール・ニザンの小説『アデン、アラビア』の冒頭を飾る言葉である。池澤夏樹はこれをカミュ『異邦人』冒頭の〈きょう、ママンが死んだ〉と並べ、20 世紀フランス小説の中で最も有名な二つの書き出しと評している。

 学歴社会フランスの頂点に立つ高等師範学校(École normale supérieure)でサルトルとも同室だった同世代では最高のエリートたる若者が、「青春は美しい」と言い募る「大人たちの紋切り型」に当事者として反撥し、老いさらばえた欧州に背を向けエキゾチックなアラビア半島南端の植民都市を旅する「イノセンスと反抗」の物語、それが『アデン、アラビア』である。

 1968年のパリ五月革命と、そこから世界の先進国に波及した学生運動の中、怒れる若者たちのバイブルのひとつとして読まれたのが、この小説だ。篠田浩一郎による翻訳(1966年刊)を読み、この小説に序文を付したサルトルをも読んだであろう当時の大学生たちは、現在ではおおむね75歳以上の後期高齢者となっている。冒頭の一節も、彼らにとっては青春の一コマを彩る懐かしい言葉だろう。

 しかし、コロナ下の現在において冒頭の言葉を改めて目にするなら、その意味合いはにわかに不穏な色彩を帯びてくることになる。そう、2020年から2022年の間に二十歳を過ごした若者たちにとって、その歳を「人生でもっとも美しいとき 」などと言われるのは、まったくもって納得の行かないことであるはずだろうから。

 先日、テレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」という番組に出演し、なりゆきでコロナ下での学生たちの苦境と「世代間の公平性」について言及することとなったのだが、その際の私の発言が賛否いずれの側からも激しい反応を招いたので、一度このことについて私自身の考えを文章にしておいたほうが良いだろうと考え、今回この稿を起こすことにした。

 本稿では、上記の番組中で私が行った発言も振り返りながら、今般のコロナ禍の下での様々な「行動制限」とそれに伴う負担の「世代間の公平性」について、法哲学者として思うところを書き留めておきたい。

 この2年間、完全にオンラインでの講義やゼミが続き、学生と直に会ったのはわずかに3回ほどだ。2021年末ようやくコロナ禍も少し落ち着いていたので、懇意にしている広いスナックを貸し切りにしてゼミ生たちと会ってみたら、やはり実際に会ってみないとお互いに分からないことだらけだなと本当に痛感したのだった。「君って、そんなに背が高いの!?」といった、背格好のことだけではない。間近に身体を伴った、複数との間で同時になされる即興的なコミュニケーションは、それぞれの人となりを豊かに表し、オンラインでのそれとは比べようのないものだった。

 教育機関としての大学の主目的は講義やゼミを通じた知識や学術的作法の獲得だが、それ以外の一見どうでもいいような時間こそが本当に大事なのだと改めて身にしみた日々でもあった。地方から出て来て友達はおろか知り合いも居ず、終日パソコンのモニタ 越しのオンライン講義を視聴し続けて心を病んだり、コロナ禍のために飲食店のバイトが壊滅的になったため、学費どころか食費の捻出も出来ずに困窮していたりする学生もいる。他方では「若者たちこそが感染を拡大させている元凶だ」といったような報道もなされ、この2年超が、彼らにとってどのような日々であったのかを想像するだけで気が重くなる。

 奇しくもニザンの孫、エマニュエル・トッドは『老人支配国家 日本の危機』という本を書いており、その中ではコロナ下で若者や現役世代のリスクを誇張した結果、最も 犠牲を強いられたのは「先進国の若い世代」であると論じているのは実に皮肉である。

 冒頭で『アデン、アラビア』を読み、青春を謳歌した人びとはサルトルを読んで学生運動に奔走したり、或いは安田講堂などには見向きもせずに神宮球場で熱狂したりしていた日々がパンデミックによって塗り籠められた数年だったらと考えると、ぞっとはしないだろうか。喪われた青春の日々について「されどわれらが日々」などとは金輪際、言えなくなっているはずなのだ。

若者の1年と高齢者の1年は「価値」が違う

 私は番組(朝生)の中で「ジャネーの法則」に言及し、「若者と高齢者にとっての1年という時間の価値は違うのではないか」と話した。この法則は「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)」というものだ。噛み砕いて言うなら5歳児にとっての1年はこれまでの人生の5分の1(0.2)だが、50歳の中年にとっての1年は50分の1(0.02)であり、単純計算で「前者は後者の10倍の主観的な密度がある」ということになるのである。

 この話は意表を衝くので、強い印象を残す。しかし実のところ、上記の5分の1とか50分の1といった体感的な長さを年齢に沿って積分して得られる「蓄積体感時間」を計算すると、寿命が80歳だと仮定して、10歳で人生全体の53%、30歳で80%に達してしまうため、よくよく考えると眉に唾しなければならないのではあるが……。

 ただ、たとえ、このジャネーの法則が眉唾であったとしても、若い頃の1年と老齢になってからの1年が同じ重みではない、という直観が我々の中にあるのではないだろうか。50歳に手が届こうとする私自身 、そう思ってしまうのである。

 ジャネーの法則にテレビ 番組で言及した際、私はハッキリと若者と高齢者とでは1年間の「価値」が違うと言ったのだが、これは激烈な反撥を招いた。人びとの中には「生命の計算」をすること自体への生理的嫌悪感があるのかもしれない。

 しかし、我々は実のところ常日頃から生命に関する計算どころか、それに値段をつけてさえいるのである。たとえば 交通事故に遭った際の損害賠償の算定表を見てみよう。交通事故紛争は、最も定型化され予測可能性の高い領域だが、事故に遭うことによって得られなくなった利益(逸失利益)の算定に関しては、「年齢」によってはっきりと差異がある。

 高齢者の場合、年金生活者で就労可能性がなければ計算上の基礎収入はゼロとなり、逸失利益を請求出来ない(事故の有無にかかわらず年金は支給されるし、後遺症が残っても「減収」は無いのだから)。これに対し、子どもについては、その時点で無収入であっても、将来働くはずであった分について全年齢の平均賃金を基礎収入として平均寿命までの可能的生存年数分を積算した逸失利益を請求することが出来るのである。

「行動制限というより人生制限だ」

 このような「命の計算」はパンデミック下の「医療資源の配分」に関連しても基本的な論点として登場することになる。広瀬巌(倫理学)の『パンデミックの倫理学』は、その点に関して実に行き届いた分かりやすい議論をしているので、ぜひ一読をお薦めしたい。

 この本の中では「死亡者の数を最小化する」という救命数最大化の原則に基づき、特にワクチンに関しては高齢者などのハイリスク群への優先接種が正当化されている。私もこのような形での医療資源の優先的配分に対して異論はない。インドネシアのように、国力維持の観点から高齢者をさしおき生産年齢人口へのワクチン接種を優先することへの同意を調達するのは、日本では容易なことではないだろう。

 実は、この本の中ではなるべく回避されるべきものとして生存年数最大化論(これから先の長い20歳と先の短い80歳のどちらを助けるか)やフェア・イニングス論(fair innings argument)などの議論も登場するのだが、後者は厳密な意味では大きな問題(高齢者差別)を孕むものの、ある種の道徳的直感に訴えるところが大なのではないかと思ってしまうのである。それは以下のように説明されるものである。

 〈ごく普通のひとが勉強をしたり、恋愛をしたり、家庭を持ったり、海外旅行をしたり、仕事でキャリアを積んだり、人生のプロジェクトを一通り経験するのに十分なライフサイクルの年数を「フェア・イニングス」と呼ぶ。フェア・イニングスの期間中は年齢に関係なくすべての人を同じように扱うべきだが、フェア・イニングスの期間を超えた人に対しては低い優先順位を与えるべきである〉[47頁]

 たとえば上記のフェア・イニングスの期間が年金支給の開始年齢65歳、あるいは70歳までだとしたら、どう感じるだろうか。これは、この本の後半での議論に関わる話でもあり、そこでは救命数最大化原則に依拠した上でパンデミック下の「基本的な権利と自由はどこまで制限されるべきか」が論じられている。その中で示される自由の制限にまつわる5つの基準(2008年のWHOのワーキングペーパー)は以下の通りである。

 (1)公衆衛生上の必要性(但し、必要最小限の措置で)

 (2)手段が合理的かつ効果的

 (3)制限と効果のバランス

 (4)分配的正義の考慮

 (5)信頼性と透明性

 既に述べた通り医療資源(ワクチンなど)の分配について高齢者が優先されるのは分かる。

 しかし、それを超えた「自由と権利の制限」に関しても、どこまでもそうであるべきなのだろうか。特に上記4つめの条件「分配的正義の考慮」は負担の公平性に関わるものであり、「社会経済的弱者」に対してより多くのリスクと負担を求めることを禁じていることが注目に値する。

 先に触れたフェア・イニングス論を思い出すなら、若年層における「負担」は激甚に不公平なものではないのだろうか。入学式や卒業式も無くなり、修学旅行も中止され、部活も禁止(制限)された中、自宅でパソコンのモニタを眺める青春の日々。確率的にはそれほど重症化しないであろう彼らに、ここまでの負担を強いることに迷いなく正当化可能だと言い切れるのだろうか。社会学者の岸政彦は「行動制限というより人生制限だ」としていたが、まさにそれなのである。

 また、負担にまつわる「事実」として、これまでの行動制限その他の負担の「帰結」の一面をハッキリと表す自殺者の統計に目をやるなら、コロナ下での雇用市場において不利な立場にある若い女性や構造的な従属性の下にある子どもの自殺が顕著に増加していることは周知の事実なのではないだろうか。テレビ出演時に私は「高齢者を救うために若い女性を殺している」と発言したが、これについては訂正するつもりはない。むしろ我々は、あの忌み嫌われる命の選別の「トロッコ問題」のスイッチを、そうとは知らずに「既に押している」のだとさえ主張したいところである。その結果がこれなのだ。

認知能力の衰えた老人になぜ参政権が付与されたままか

 日本の若者は、まったき意味で論理的に「構造的少数者(弱者)」であることが強調されなければならない。人口ピラミッドをひと目みれば分かる通り、若年層は民主的回路(選挙)の中では、絶対に高齢者層に勝利することは出来ない。2022年1月報の人口推計を眺めてみるなら、65歳以上の高齢者が3622万人であるのに対して、20~34歳までを合わせても1918万人しか居ないのだから。民選の統治者が、高齢者に我慢を強いて若者に配慮するようなインセンティブは構造的に剥奪されているのである。ある意味で、現状の様々な施策が、統治者たちにとっての「合理的」な選択であるのは「当然」のことなのである。

 この「構造的少数者」としての若年層と世代間正義について安藤馨(法哲学)が極めて重要な議論をしているので、以下ではその論文「世代間正義における価値と当為」の内容をかなり噛み砕いた形で紹介しておきたい。なお、本稿ではこの論文が持つ奥深い哲学的含意などは紹介し切れないので、可能なら是非、論文そのものを読むことをお薦めしたい。

 早速、内容に入ってゆくが、かつて「女性」は「子ども」と並べられて当然に選挙権者から除外されていた。ジェイムズ・ミル(『自由論』で有名なジョン・スチュアート・ミルの父)の『統治論』でも、彼らの利益は他の人びとの利益に議論の余地なく含まれているので〈選挙権者から取り除くことが出来る〉とハッキリと書かれている。子どもは親の利益の中に、女性は父親や夫の利益の中に含まれているというのである。その後、20世紀に入って多くの国で女性には参政権が与えられたが、子どもには与えられなかった。何故、そうはならなかったのだろうか。

 子どもに選挙権を付与しない「常識」的な論拠は、彼らが「能力」を欠いているからだ。しかし、「能力」だけが問題なのだったら、認知機能に著しい問題のある老人にはなぜ参政権が付与されたままなのだろうか(対称性の議論)。さらに言うなら、本当に「能力」が問題であるのなら、全有権者に定期的に何らかの能力テストを課すべきだということになってしまうのではないだろうか。つまり、子どもに選挙権を与えることは論理的にはまったく 可能なのではないか、という話なのだ。

 また、先述の人口ピラミッドの話からも分かる通り、若者は「構造的少数者」なのではないかという問題もある。人種差別のような構造的少数者の問題に対して、われわれは立憲主義の下、民主的回路(多数決)においては恒常的に多数派に敗北してしまう少数者を救うためには司法部に訴えるしかない。しかし、シルバーデモクラシー(老人の専制)から若者を守るために、あらゆる方策を憲法的に保障するわけにはゆかないので、民主主義の枠内での方策を検討せざるを得なくなる。

 これに関して、たとえばベルギーのヴァン・パレイス(社会思想)は「老人の選挙権を剥奪する」という処方箋を呈示している。ただ、これには様々な問題があるし、このような問題提起は少子高齢化社会では妥当かもしれないが、多産で若年人口が拡大しつつある社会の場合には「苛烈な老人差別」を産み出すことにもなりかねない。

 色々な可能性を検討してみても選挙については「年齢による重み付けのない普通選挙」をするしか無さそうである。しかし、このような事態そのものを招来したのは老年層なのではないだろうか。彼らこそが「少子化」を引き起こした張本人たちなのである。一定数の若年世代を再生産し、あるいはそれを可能にするような諸条件を整備する義務があったはずの彼らは、この義務を履行せずに民主主義的決定の正統性を破壊した以上、少数派若年層に対して自分たちの集合的決定(多数決の結果)への服従を要求する資格はない。安藤は〈いまや若年層は実力によって老年層を排除する抵抗権を有するだろう〉と記している。

 これまで論じたようにデモクラシー(=多数決としての民主的回路)が有効に作動し得ない帰結として招来される陰惨な事態(抵抗権にもとづく若者による老人たちの実力排除)を回避するためには、分配的正義の問題を直接に論じるしか無いのである。たとえば、老年層が自発的に自分たちの医療費の削減などという形での分配的正義を実現しない限りは、老人たちは若者たちから実力で放逐されても文句は言えないのではないだろうか。

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