ロシア軍の激しい攻撃に晒されているマリウポリには、オスマン帝国とウクライナの歴史的な深いかかわりを象徴する「壮麗王スレイマンとヒュッレム」モスクがある

いまロシアの侵攻に晒されるウクライナは、旧ソ連の支配下に入る20世紀より以前にも、オスマン帝国やその属国から襲撃を受けた歴史を持つ。多くの女性がスルタン(オスマン帝国君主)の後宮であるハレムに連れ去られたが、なかにはスルタンの寵姫となり、オスマン帝国史を舞台裏から動かした“女傑”もいる。そんなウクライナの地に産まれた女性たちの横顔を、オスマン帝国史の研究者で、『ハレム 女官と宦官たちの世界』著者である九州大学の小笠原弘幸氏が紹介する。

マリウポリの「壮麗王スレイマンとヒュッレム」モスク

   2022年2月24日にロシアがウクライナに侵攻してから、一カ月半が経った。ウクライナ東部、ドンバス地方の要所マリウポリは、いまロシアの厳しい包囲下にある。絶え間ない砲撃により、重要なインフラを含む多くの建物が破壊され、民間人にも2万人以上と伝えられる犠牲者が出ている。

   マリウポリの町には、ひとつのモスク(イスラム教寺院)がある。「壮麗王スレイマンとヒュッレム」モスクである。このモスクは、2007年、トルコ共和国のビジネスマンであるサリフ・ジハンと、現地のアゼルバイジャン系の人々によって建てられた。イスタンブルにそびえたつスレイマニエ・モスク――16世紀に活躍した名建築家ミマール・スィナンによる傑作――を模したこのモスクは、現地のムスリム住人たちの祈りの場であると同時に、イスラム文化センターとしての役割ももつ。

   現在、この「壮麗王スレイマンとヒュッレム」モスクには、80名ほどのトルコ系ムスリムの人々が避難しているという。ロシア軍の爆撃を受けたという情報もあったが、直撃は逃れたようだ。

   このモスクの名となった壮麗王スレイマンとは、オスマン帝国(1299~1922年)の名君として知られるスレイマン一世(在位1520~66年)のことであり、ヒュッレム(1505年頃~58年)とは、スレイマン一世の寵愛をうけ、大きな権力を握った后の名である。

   なぜ、ウクライナのモスクに「壮麗王スレイマンとヒュッレム」という名前が冠されたのだろうか? それは、ヒュッレムの故郷が、いまのウクライナにあるからだ。オスマン帝国の歴史上、もっとも有名な女性といえるヒュッレムは、ウクライナの出身なのである。

寵姫ヒュッレムに投影された人々の郷土愛

16世紀に描かれたヒュッレムの肖像

   ヒュッレムの故郷は、ウクライナ西部の町ロハティンであったという。ロハティンは、当時ポーランド領である。彼女はこの町の司祭の娘であり、本名はアナスタシア、もしくはアレクサンドラだったともいわれるが、これが事実であるかは判然としない。

   その彼女が、スルタンのハレムに入ったのは、奴隷としてであった。当時、ロシアやウクライナの一帯は、しばしばクリミア・ハン国の襲撃の対象となっていた。クリミア・ハン国は、モンゴル人の末裔で、オスマン帝国の弟分に当たる。黒海北岸のクリミア半島を本拠地とした彼らは、しばしばロシアやウクライナで略奪を繰り返し、住人をとらえ、オスマン帝国に奴隷を供給したのだった。ヒュッレムも、クリミア・ハンの襲撃によって奴隷となり、即位したばかりのスレイマン一世のハレムに入ったのである。そこで彼女は、イスラム教へと改宗し、「ヒュッレム」という新たな名前を与えられたのであった。

   スレイマン一世には、すでに王子を産んだ寵姫マヒデヴランがいた。しかしヒュッレムは、生来の快活さでスレイマンの寵愛を得ることに成功する。スレイマンの溺愛ぶりに、ヒュッレムが魔術を用いてスルタンをたぶらかしたのではないか、という噂すらたった。彼女は、たてつづけに御子をさずかることで、寵姫たる地位を盤石のものとする。1530年代には、もともと奴隷の身でありながら、慣例に反してスレイマンと正式な婚姻関係を結び、以降のハレムに君臨したのであった。

   彼女はスレイマンとのあいだに五男一女をもうけるとともに、国政に大きな影響を与えたといわれている。さらに、彼女の活躍はハレムにとどまらなかった。当時のオスマン帝国にとって最大のライバルは、ハプスブルク帝国であったが、彼女は、ハンガリーやポーランドの王妃と書簡を交わし、ハプスブルクに対抗するべく非公式の外交活動を行ったのであった。

   ヒュッレムは、長きにわたってハレムに君臨したが、1558年、スレイマン一世より早く、我が子の即位を見ることなく亡くなった。

スレイマン一世

「壮麗王」とも「立法王」ともよばれる名君スレイマン一世の寵愛を一身に集めた彼女の生涯は、同時代からヨーロッパ人の関心を集め、戯曲や文学の題材となった。2011年からトルコ共和国で放映された、スレイマンやヒュッレムを主人公としたテレビドラマ『壮麗なる世紀(邦題:オスマン帝国外伝 愛と欲望のハレム)』が世界的なヒットとなったのは、記憶に新しい。

   ヒュッレムの出身地であったポーランドとウクライナでも、彼女の人気は高い。とくにウクライナでは、1864年にヒュッレムを題材にした戯曲が書かれて以来、さまざまな形で「ヒュッレムもの」が著されている。1990年代には、『壮麗なる世紀』にさきだって、ヒュッレムを主人公にしたテレビドラマが制作作成されてもいる。

   ウクライナで著されたこうした作品においては、ヒュッレムは、ウクライナ人が奴隷となるのを防ぎ、またウクライナ人奴隷の解放につとめた人物として描かれる。彼女は、ウクライナへの郷土愛と愛国心を忘れていなかった、とされているのだ。

   ただし歴史上のヒュッレムが、実際に故郷への愛着を持ちつづけていた、とはいえない。ヒュッレムがウクライナ人奴隷の待遇改善にかかわった事実は見いだせないし、オスマン帝国のハレムに入った女奴隷は、故郷とのつながりを断つのが通例であったからである。とはいえ、オスマン帝国という史上まれにみる国家に君臨したヒュッレムという女性に、同郷であるウクライナの人々がこうした思い入れを持つのは、自然なことであろう。

   文芸以外にも、ヒュッレム人気はウクライナにいくつもの形で影響を与えている。冒頭で言及した「壮麗王スレイマンとヒュッレム」モスクはその筆頭であるし、1999年には、ヒュッレムの故郷とされるロハティンで彼女の銅像が建てられている。切手の題材ともなり、さらにいくつかの町の道路では「ロクセラーナ通り」(「ロクセラーナ」とは、ヒュッレムの別名)の名が付けられた。ウクライナに住むイスラム教徒にとって、男性なら「スレイマン」、女性であれば「ロクセラーナ」という名はポピュラーだという。

「ウクライナ人」の母后たち

   ヒュッレムは、我が子の即位を待たずして亡くなったため、母后――スルタンの母として、ハレムに君臨する存在――の地位を得ることはなかった。しかし17世紀中葉には、ついにウクライナ出身の母后が誕生する。メフメト四世(在位1648~87年)の母トゥルハン(1627~83年)である。

   メフメト四世が6歳で即位したとき、トプカプ宮殿のハレムを支配していたのは、メフメト四世の祖母キョセム(1589頃~1651年)だった。キョセムは、ムラト四世(在位1623~40年)とイブラヒム(在位1640~48年)という二人のスルタンの母后である。本来なら、息子イブラヒムの退位にともない、キョセムはトプカプ宮殿を退かねばならなかったが、彼女は「もっとも偉大な母后」を名乗り、慣例に反してとどまり続けた。

   ながらく隠然たる権力をほしいままにしていたキョセムにたいしては、人々の反感が募っていた。新しく母后となったトゥルハンのまわりには、キョセムに対抗する人々が集まり、ついにはハレムでの暗闘に発展した。1651年、トゥルハンに刺客を送ろうとしたキョセムの機先を制し、トゥルハンはキョセム暗殺に成功する。オスマン帝国史上、最初で最後の、ハレムでの母后殺害であった。

   こうしてハレムの頂点に立ったトゥルハンは、それまで目立って活躍のなかったキョプリュリュ・メフメトという老政治家を大宰相に抜擢した(在任1656~61年)。キョプリュリュは、トゥルハンの期待に応え、剛腕をもって反対者を排除して綱紀粛正を行い、オスマン帝国に安定をもたらした。キョプリュリュの死後は、その息子ファーズル・アフメトが大宰相に就任し(在任1661~76年)、彼の時代にオスマン帝国は最大版図を達成する。してみると、トゥルハンは、有能な人物を見抜き、その人物に差配をゆだねるという、上に立つ者の才能を持っていたということであろう。

   トゥルハンの時代には、彼女の故郷、すなわちウクライナで動乱がおきた。当時のウクライナはポーランド・リトアニア共和国の支配下にあったが、それを嫌ったウクライナのコサックが蜂起したのである。コサックの指導者フメリニツキーは、オスマン帝国との同盟を模索し、オスマン帝国側も彼に好意的に対応した。こうしたオスマン帝国の外交政策に、ウクライナ出身であるトゥルハンの意向が反映していた、と見る研究者もいる。ただし、結局フリメニツキーは、オスマン帝国ではなくロシアとの同盟を選択している。

   スルタンの母后となったウクライナ出身の女性は、もう一人いる。18世紀中葉、オスマン三世(在位1754~57年)の母后であるシェフスヴァル(?~1756年)である。彼女は、ヒュッレムやトゥルハンのように、政治的に大きな力をふるったわけではない。ただシェフスヴァルは、息子を生んでから、その息子が即位するまで、実に50年以上ものあいだ待ち続けたことで有名である。これは歴代母后のなかでももっとも長い記録である。ようやく母后の座を手に入れた彼女であったが、息子の即位後2年足らずで亡くなってしまったため、その地位を謳歌することもなかった。

   ウクライナ出身の母后は、トゥルハンとシェフスヴァルの2名であるが、スルタンのハレムには、ほかにも少なくない数のウクライナ出身の寵姫がいた。こうした状況を指して、ウクライナ人のオスマン帝国史研究者であるオレクサンドラ・シュトコは、「ウクライナ人による統治(ウクライナ・サルタナト)」と呼びすらしている。やや大げさな表現にも思えるが、ひとつの見方としては、ウクライナ系の女性がオスマン帝国のハレムに君臨した時代は、まちがいなくあったのである。

『ハレム―女官と宦官たちの世界―』(小笠原弘幸/著)

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小笠原弘幸(おがさわら・ひろゆき)

九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明史学講座准教授。

1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。専門はオスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『オスマン帝国』(中公新書、樫山純三賞受賞)、『ハレム 女官と宦官たちの世界』(新潮選書)などがある。

【参考資料】

Mahir Aydın. “Tarih Boyunca Türkiye-Ukrayna İlişkileri.” Güney-Doğu Avrupa Araştırmaları Dergisi 28(2015): 31-44.

Necdet Sakaoğlu. Bu Mülkün Kadın Sultanları. Istanbul: Alfa, 2015.

Oleksandra Şutko. Hazal Yalın trans. Hürrem Sultan. Istnabul: Kitap Yayınevi, 2017.

M. Çağatay Uluçay. Padişahların Kadınları ve Kızları. Ankara: Türk Tarih Kurumu, 1980.

Galina İ. Yermolenko ed. Ferit Burak Aydar trans. Avrupa Edebiyatı, Tarihi ve Kültüründe Hürrem Sultan. Istanbul: Koç Üniversitesi Yayınları, 2013.

https://risu.ua/en/kremlin-barbarians-are-now-destroying-the-sultan-suleiman-and-roksolana-mosque-in-mariupol_n127086 (2022年4月7日閲覧)

https://touristl.com/listing/mariupol-mosque-in-honor-of-sultan-suleiman-the-magnificent-and-roksolana/ (2022年4月7日閲覧)

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