屋良朝苗:革新陣営の「全県民的」現実主義

執筆者:野添文彬2022年5月15日
行政主席公選に勝利した屋良(沖縄県公文書館所蔵)

 

主席公選の実施へ

 1952年4月に米国統治下の沖縄の行政機関として琉球政府が発足して以来、そのトップである行政主席は、米軍当局によって任名されてきた。しかし沖縄では、自治権の拡大のため、行政主席の公選を求める声が高まっていく。

 佐藤栄作首相の沖縄訪問直後の65年9月には、屋良朝苗は他の沖縄の有識者とともに「主席公選推進五人有志会」の一員となり、米国民政府や日本政府に主席公選の実施を要請した。

 ついに68年2月1日、フェルディナンド・トーマス・アンガー高等弁務官は、主席公選を実施するとの声明を発表した。

 その背景には、沖縄での要求の高まりの他、67年11月に佐藤首相が訪米し、リンドン・ジョンソン大統領との間で「両3年内」に沖縄返還の時期を決定するという日米共同声明が発表されたことなどがあった。

 そのような中で、ベトナム戦争への米国の介入が本格化し、沖縄がその重要拠点として米軍に使用されるようになった。アンガー声明直後の68年2月5日以降、核兵器搭載可能な米爆撃機B-52が沖縄の嘉手納基地に常駐、その後ベトナムへ出撃し、沖縄住民を不安にさせた。これらは、沖縄の政治情勢、そして主席公選の争点にも影響していく。

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