那覇市長就任時の西銘順治(沖縄県公文書館所蔵)

 

分かれた協力路線と闘争路線

 1959年11月に琉球政府行政主席に就任した大田政作は、沖縄に対する日米協力方式を掲げ、米軍当局と協調するとともに、日本政府からの援助も取り付けていく。こうした方針は、沖縄住民の支持を得て、60年11月の第5回立法院選では、沖縄自民党が22議席を獲得して圧勝する(社大党5、人民党1、無所属1)。

 その背景にあったのは、沖縄をめぐる情勢の変化である。

 軍用地問題解決後、米国政府は沖縄統治政策を見直し、沖縄の経済成長を促進する。さらに62年3月にはジョン・F・ケネディ大統領が新たな沖縄政策を発表し、沖縄住民の福祉向上のための日米協力を打ち出した。

 他方、60年4月28日には、「沖縄県祖国復帰協議会」が発足し、復帰運動が本格化していく。沖縄自民党は、当初復帰協の準備委員会に出席していたが、「日・米・琉相互の信頼と理解を深めることによって復帰を早めることができるのであり、復帰を民族運動とか抵抗・闘争によって勝ち取ることはできない」という星克幹事長の談話を発表して参加を拒否した。

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