内多勝康さんがNHKの看板アナというキャリアの次に選んだ職場は、医療的ケア児短期入所施設「もみじの家」。新しい職場では「自分の思いを100%出せるのが魅力」だと語る(写真・著者提供)

 「実際の仕事と、自らのやりがいのバランスが保てなかった」――中高年には刺さるフレーズだ。

 元NHKアナウンサーの内多勝康さんは、53歳で成育医療研究センター(以下、成育)の医療的ケア児短期入所施設「もみじの家」ハウスマネージャーに就任した。

 看板番組をいくつも担当し、医療的ケア児について報道した経験が活きた転職だったが、当時、自然と「若手に席を譲る年代」になっていたことが思い切るきっかけだったと内多さんは語る。

 転職から6年たった「今」を内多勝康著『53歳の新人 NHKアナウンサーだった僕の転職』から一部抜粋・再構成してお届けする。

転職してよかったか?

 「転職して、よかったですか?」とよく聞かれます。もみじの家に来て1年ぐらい(未経験の事務職に七転八倒し、利用者が増えずに赤字対策に奔走した)は、なかなか笑って返事ができませんでしたが、今ははっきりと「よかった」と言えます。これは、本心です。

 何がよかったのかといえばいろいろありますが、まず、医療や障害福祉の分野のトップリーダーのみなさんと、会議やシンポジウムでご一緒する機会が頻繁にあることです。本当に光栄なことです。そうするうちに、僕が持っていた医療・福祉のイメージがすっかり変わりました。一言でいえば、みなさん非常にカッコいいんです。

 正直、マスコミにいたときは、カルテの改ざんとか患者の取り違えといった情報ばかりが聞こえてきて、日本の病院にあまりよいイメージを持つことができませんでした。福祉に関しても、伝わってくるのは不祥事などの悪いニュースばかり。

 でも、実際に業界の中に身を置いてみると、それは偏った先入観だったことがすぐにわかりました。特に僕が関わっている子どもの医療分野では、日本は国際的にも高いレベルを誇っています。

 成育の臓器移植センターには、国内はもちろん、海外からも移植手術を受けるために、たくさんの子どもたちが来院します。また、先天性の心臓の病気を治療するため、母親のお腹の中にいる胎児に対して手術を行うことも可能です。こうして、高度な先進医療技術で、病院のスタッフたちが毎日献身的に子どもたちの命を支えている。これは、やっぱり医療機関の内側に入らなければ実感としてわからなかったことです。

 本当に尊敬すべき人がたくさんいます。日夜、子どもの命を救うために、そしてご家族の暮らしを守るために、労を惜しまず、寝食を忘れて力を尽くしている。その姿は、まるで僕が子どもの頃に憧れた、仮面ライダーのようです。

自分の思いを100%出し切る

 そんな中、僕はこの職場で社会福祉士(NHK在職中、50歳の時に取得)として何ができるのかを考え続けてきました。どうしたら子どもと家族のためになる仕事ができるのか。子どもへの直接的なケアができない自分は、おのずと社会に向けた情報発信や公的制度の充実に重点を置いて活動することになっていきました。

 今の職場は、自分の思いを100%出せることも、魅力です。

 NHKでの仕事を振り返ると、放送は基本的にチームプレーでした。取材し構成する担当、スタジオでゲスト相手に番組を進行する担当、質の高い映像や音声を作り上げる担当、全体を俯瞰で見て統括する担当。それぞれが担うべき責務をまっとうすることで、番組という作品を高いレベルに仕上げていくのです。一人だけで動いても空回りするだけで、「なにをスタンドプレーしとるんや」と言われてしまうことにもなりかねず、あまりよいことはありません。退職するまでの30年間、プロジェクトを一人で切り盛りする経験は、ほとんどゼロでした。

 一方、もみじの家では、対外的な発信や交渉事は、基本的にハウスマネージャーの一人プロジェクトです。いつも一緒に動いてくれる部下がいるわけではありませんので、自分でアクションを起こさなければ、事態は動きません。

 広報戦略も、寄付の呼びかけも、行政への要望も、誰かが指示を出してくれることはなく、僕の頭の中で方針を定めることが求められます。転職してきた当初は、きっと誰かがやるべきことをそっと教えてくれるだろうと、なんとなく期待していましたが、みんなそれぞれの業務で忙しいので、いちいち僕のことを気にかけて、仕事の肩代わりをしてくれるはずもありません。

 隙あらば他人に頼ってしまおうとする、甘ちゃん根性を捨てなければ、仕事が回っていかないのです。恥ずかしながら50を超えて転職して、ようやくその境地にたどり着きました。

マスメディアにいてはできなかったこと

 障害福祉サービスの報酬改定で要望の声を大きくしたいと思えば、全国で同じ事業を行っている人たちに協力を呼び掛ける。都道府県ごとに医療的ケア家族会が必要だと思い立てば、各地にひたすら電話をかけまくる。止める人はいませんから、やればやるほどプロジェクトは進んでいきます。当然、やった責任は自分が背負うことになり、重圧がかかりますが、その代わり、得るものの質が大きく変わったことは間違いありません。

 もみじの家に転職した今は、僕は支援者なので、完全に当事者側に寄れる強みがあります。医療的ケア児者と家族の思いを、そのまま代弁できる立場にあるといってもいいかもしれません。そんなふうに、それほど中立のバランスを考えずに自分の行動を決められることも、大きな魅力になっています。

 そもそも転職を勧められた時から、「年齢的にチャレンジできる最後のチャンス」「これを断ったら一生後悔することになる」という囁きが自分の内側から聞こえていました。僕の感性にどの程度の信憑性があるのかは甚だ疑問ですが、それに素直に従えたことがよかったと、今は言えます。そして、定年までよっぽどのどんでん返しがない限り、「よかった」のままで行けるような気がしています。

 つまるところ、僕は自分がやりたいことに対してばか正直だということになるんでしょうか。一生懸命になれるのは、純粋に自分がそれを好んでいるから。人生の年輪を重ねるごとに、頭の中がどんどん単純化されているようです。これからも「これやりたいな」と思ったら、すぐに実行できる人間でいたいと思っています。

仕事が変わっても、変わらないもの

 僕のよいところでもあり悪いところでもあるのが、物事をすすめるときに、あまりきちっとした計画を立てないこと。どちらかというと動きながら考えるタイプで、これは転職しても変わっていません。

 そして、NHK時代から引き続き、「誰のために仕事をするか」──この軸はずっと変わりません。

 阪神・淡路大震災で放送局中が怒声と喧噪に包まれる中、被災者のためにどういう情報が大事なのか、初めて真剣に考えました。あれから25年以上経ち、職場が変わっても、誰のために、何のために仕事をするかをベースに働くことはブレていません。というか、ブレずに仕事がしたいから、転職を決意したという表現がしっくりきます。

 もみじの家では、医療的ケア児に遊びや学びのプログラムを提供する日中活動に力を入れてきました。これも、「子どものために」という考えからブレていたら、今のもみじの家の姿が大きく変わっていた可能性すらあったと思います。例えば「運営安定のために」効率を優先する内多君が顔を出すと、たちまちこうなります──「赤字を減らさなければならない」→「収入が増えないのなら支出を減らすしかない」→「医療的ケアを担う看護師は減らせない」→「保育士を減らさざるをえない」→「日中活動をやめる」。

 考えただけでも、最悪です。これでは、もみじの家を作った意味自体がなくなってしまいます。こんな内多君に出てきてもらっては、大迷惑です。でも、誰が何と言おうと、それだけは絶対にやらないと決めていましたし、その信念は大正解だったと思います。

 その甲斐あって、同事業運営の皆さんと厚生労働省に要望を提出し、2021年度障害福祉サービス報酬改定で「日中活動支援加算」が新設されました。

60歳定年は終わりではなく通過点

 現在僕は58歳です(2022年4月18日で59歳)。職場の再雇用制度はあるようですが、どうなるかわかりませんので、一応60歳の定年までと思って仕事をしています。延長するつもりでのんびり仕事に取り組んでいたら、60歳で「あ、もういいよ」と言われて全然間に合わなかったというのでは、あまりに中途半端でおそまつですから、悔いのないように、当面は60歳までに何ができるかを考えています。

 活動のフィールドが多様化しても、軸足はもちろん「もみじの家ハウスマネージャー」です。

 今後は新たなテーマとして、「災害対策」に力を入れていく決意を固めています。大地震や風水害に見舞われた際、医療的ケア児者の避難先をどう確保するかは、全国的な課題です。命をつなぐために電源が必要な子や酸素が欠かせない人もいます。福祉避難所といえども、医療的ケアに対応できているわけではありません。そんな中、医療機関の敷地内にあり、広いスペースが確保でき、本格的な非常用発電機を備えるもみじの家が、どのような役割を果たせるのか、どこまでの被災者に対応できるのか、地域の安心のために、ここはしっかりと計画を立てなければいけません。こればっかりは計画作りが苦手だとか言っている場合じゃないですから。

 そのあとの先の話は、残念ながらできません。というのも、これまで書いてきたように、僕は「ディレクターになりたかったのにアナウンサーになった」「NHKで定年まで勤めあげる予定だったのにあと数年というタイミングで転職した」男で、自分の予想通りにはいかないというか、ごくたまにですが、人生が思わぬ展開を見せ、とんでもない方向に転がることがあるからです。

 実は、大学時代に、その兆候はありました。幼いころからそろばんを習っていたので計算能力が上達し、算数、数学が得意科目となって、その勢いで大学は理系で入りました。しかしながら、大学の数学にはまったく歯が立たず、テストで落第点をとる始末。ショックを受けた僕は、大学の途中で文系の学部へ逃げ出すことを決意しました。

 これだけで済めば、いわゆる「若気の至り」で説明がつきますが、僕の場合、50過ぎてなお同じようなことをしているわけです。だから、もう自分の描く将来のイメージを信用する気にもなりません、イメージすることすら最近はなくなってしまいました。「この先、何が起きてもおかしくはない」という心境に至っております。

 そんな訳で、具体的な像を結ぶことはできませんが、漠然と70までは働きたいなぁと思っています。ということは、あと10年あまりです。ソーシャルアクションの現場が、もみじの家だけでなく、どんどん広がっていることを思うと、ミッションが拡大していくことは間違いありません。

 でも、あまりずっと居続けるのもなんですから、「こいつ、いつまでやるつもりなんや」という視線を感じるようになったら、引き際を考えようと思います。

改めて僕にとって仕事とは何か

 極端な話、仕事は自分の存在そのものだと思います。

 若いころは仕事をして給料をもらうことが目的だったことは否めません。勢いがあるし伸びしろもあって、これから仕事がどんどん増えていく真っ最中の若き内多君は、そこになんら違和感はありませんでした。無我夢中で取り組めば、新しい舞台が用意され、次のステップを踏むだけでした。今、その内多君は、いなくなったわけではありませんが、かなり小さくなった感じです。

 50歳を過ぎてうまくステップが踏めなくなった。一生懸命に足を出しても空を切るようで、それは結構精神的に辛く、不安定にもなりました。自分の居場所がなくなったような喪失感を感じ、「これでいいのか」と思いながら仕事を延々と続けなきゃいけなくなることに恐怖心もありました。そんな葛藤の中で、守るべき価値観が徐々に変容していったのかもしれません。それはつまり、内多君自身の“変身”でした。

 だから、30年のキャリアを捨てることにも、恐れは感じませんでした。転職で収入が下がることにも、全然とは言いませんが、あまり抵抗はありませんでした。

 それよりも、給料以外の手ごたえ、つまり「誰かのために」がないと、嫌になってしまう。「何のために仕事をするのか」は、イコール「何のために生きるのか」。そこがぼやけてしまうと不安でしょうがなくなる、今日この頃です。

 今はむしろ、今後、僕の役割が予想を超えて展開し過ぎてしまうかもしれないことへの慄きはありますが、そういう怖さなら大歓迎です。最新の内多君は、矢でも鉄砲でも持ってこいの境地に達しつつあります。

 転職のチャンスがきたとき、まるでジグソーパズルのピースが全部きれいにはまるように、「断る理由が全くない」状況が完成してしまいました。追い風といいますか、よく言う「見えない力に導かれる」感覚でした。そんなときに、人は変われるのかもしれません。僕はそのタイミングを逃さなかった。すぐに動けたのはよかったと思います。

 30年間のアナウンサー人生は、もみじの家へ転職するための、必要不可欠な長い助走だった。改めて、そう思います。こうして振り返ってみると、いくつもの出来事が、次々と今につながっていきます。長く生きていると、面白いもんだなと思います。そしてきっと、もみじの家で日々積み重ねている一つ一つの経験が、今後の人生の形や彩りを変化させるのだと思います。僕の人生の延長線上に、この先どんな道が広がっていくのか、今はそれがすごく楽しみです。

『53歳の新人 NHKアナウンサーだった僕の転職』(内多勝康/著)

---------

内多勝康(うちだ・かつやす)

1963年東京都生まれ。東京大学教育学部卒業後、アナウンサーとしてNHKに入局。2016年3月に退職し、同年4月より国立成育医療研究センター「もみじの家」ハウスマネージャーに就任。著書に『「医療的ケア」の必要な子どもたち 第二の人生を歩む元NHKアナウンサーの奮闘記』(ミネルヴァ書房)、『53歳の新人―NHKアナウンサーだった僕の転職―』(新潮社)。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。