福祉とアートの力で社会にイノベーションを起こす、「ヘラルボニー」創業者の松田文登(左)・崇弥(右)兄弟(C)株式会社ヘラルボニー

 スタートアップ企業に与えられる数々の賞に輝く岩手のライフスタイルブランド「ヘラルボニー」。設立4年でNHKや民放各局、新聞各紙もこぞって取り上げる急成長を遂げた同社は、知的障害のある人の作品(アート)に正当な芸術価値を認めて権利を管理し、企業が日用品から建築物まで様々な用途で商業使用する対価を作者に還元する。

 だが、最初から順風満帆というわけではなかった。双子の経営者、松田文登・崇弥兄弟には情熱があったが、資金もノウハウも人脈もない。最初に二人の企画書を受け取り、以来伴走を続けてきた「るんびにい美術館」アートディレクターの板垣崇志氏が明かしたの創業秘話を、書籍『異彩を、放て 「ヘラルボニー」が福祉×アートで世界を変える』から抜粋・再構成して紹介する。

MUKUとの出会い

 板垣氏の働く「るんびにい美術館」は、岩手県花巻市にある。知的障害のある人たちの入所施設「ルンビニー苑」の創作活動から生まれたアートとの出会いの場だ。

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 「へラルボニー」代表取締役社長の松田崇弥さんがお母さんに誘われて、るんびにい美術館を初めて訪れたのが2015年だったと聞いています。そのとき、ギャラリーには八重樫道代さんや、佐々木早苗さんの絵が展示されていたようです。当時は崇弥さんと面識も接点もなく、のちの展開の大きな節目となったその来館を私は知る由もありませんでした。

 そして2016年の1月だったと思います。現在のヘラルボニーの中心メンバーである大田雄之介さんから、企画プレゼンのアポイントが入りました。光林会サイドからは、就労センター長・高橋さんと、当時、アート担当支援員だった村井さん、そして私(編集部注:板垣氏)の三人で対応しました。

 そしてやって来たのが、大田さんと松田崇弥さん。「MUKU brand vision」と入った企画書を携えていました。崇弥さんは丁寧だけれども、とにかく圧倒的な熱意──作品に魅了された自分たちの思いを必ず実現させたいという、衝動ともいえる凄まじいエネルギーが強く、しかしとても静かににじみ出ていました。

 ひと通りお話を聞いて、高橋さんが冷静に口を開きました。

 「これはビジネスですか? それで、うちは何をすればいいんですか?」

 その意味するところは、「この企画に対して当館に出資を要望されるということでしょうか?」ということです。崇弥さんは慌てて、光林会側に費用を負担してもらうものではないと一生懸命、説明します。

 高橋さんは前職で大きな企業で働いていた経験もありました。このプレゼンにまず、自分たちにとってのどんなリスクやコストが織り込まれているのかに注意を払ったのは自然なことだったかと思います。企画内容のポジティブな面の背後に、ネガティブな要素が隠れていないか、注意深く確認していました。

 隣にいた私は、直感的なところで崇弥さんのエネルギーをひしひしと感じながら聞いていました。でも正直なところ、企画内容については、まだ驚くようなインパクトは受けませんでした。それ以前にも、るんびにいの作者さんたちの作品をさまざまな商品に使わせてほしいというオファーはいくつか来ていましたので、特に目新しさは感じなかったのです。

 「そういったお話は、何度かいただいたことがありますが……」

 私が言いかけると、崇弥さんたちは驚いた様子でした。障害のある方の作品をプロダクト化しようという企画に、自分たち以前の例がすでにあったことが意外だったようです。反対にこちらにとっては、当然そういう先行例に対するリサーチや分析を踏まえて、周到に新しい戦略を携えて来たんだろうな、と思っていたのがそういうわけではなかったことが意外でした。けれど、少しネットを調べればいくつもヒットするような先行例を知らなかったというそのことが、欠点には感じられないほど彼らの熱意は輝いていました。その矢も盾もたまらず走り出したような無防備さが、かえって魅力的でした。この日、るんびにいにやって来た若者たちは、自分たちの熱意のままに企画を持ち込み、だめなら砕けて出直すのみ、の勢いだったのでしょう。そして彼らは、結局あらゆる先行例をあっという間に凌駕していったのです。

パワーに圧倒される

 初対面で、私は直感的に確信したことがありました。前年の夏に作品に衝撃を受け、その日の夜には衝撃を文登さん(編集部注:松田崇弥氏の兄であり「ヘラルボニー」代表取締役副社長の松田文登氏)はじめ仲間に共有したという崇弥さん。そして、若者たちはプレゼン資料を整えて、数カ月後にはるんびにいの門を叩いた──この情熱には間違いなく大きな「何か」がある。強力な精神の核のような、尋常じゃない信念の気配を感じたんです。

 また、提案されたアイテムがネクタイだったことにも惹かれました。

 健常者と障害者、人と人、福祉とアート……社会を「結ぶ」ことにこだわって進めたいから、ネクタイ(ボウタイも含まれていました)。当初のデザインラフは、作品を部分的にトリミングして構成していく、さもありなんというイメージのものでしたが、デザインの良しあしにかかわらず、私個人の胸の内では、このオファーは受けてみようという気持ちになっていました。

 MUKUのメンバーはみんな本業があって副業でやっていて、それもなかばボランティアで活動していると聞けば、まだフワフワしていたのかなと取られかねないでしょう。けれど、とてつもないパワーを感じさせ、本気度というか、すべてのエネルギーを凝縮して注ぎ込む意気込みには、これ以上何かを疑う余地がなかった。「この人たちはやり遂げるんだろう」と予感できた。

 熱意ある青年が自分たちの「挑戦」について語るのを聞いたからには、結果を見ないで終わらせる手はない。最後まで見ないことには、実際にどうなるかわからない……彼らのこれからを見届けたいと思い始めたのは、崇弥さんの熱意と丁寧さに感じ入ったからです。

 最初にお目にかかった日からずっと、すごく丁寧な物腰でした。柔らかい態度で、一生懸命私たちの言葉に耳を傾けていました。

 人って、交渉事や相談事に臨んだとき、丁寧な姿勢をとっていても、一瞬、その人の「素」が出る瞬間ってありますよね。私も別にそれを見たって落胆するとか、ダメだなと思うほどのことでもなく、人ってそういうものだよな、どうしてもほころびが出ちゃうよな、と思っています。

 ところが崇弥さんにはそれがなかった。批判的な問いを向けられて一瞬たじろぐ瞬間はあっても、目の奥の思いがかげることはなく終始、まっすぐなまなざしをこちらに向けていました。崇弥さんの一番奥にあるものがそのままストレートに態度に、まなざしに、言葉になり、思いとして包み隠さず私たちに開示された。

 そこにあったのは大きなパワー──控えめで丁寧な姿勢とは裏腹の、とてつもない信念のパワーでした。

度肝を抜かれた試作サンプル

 MUKUのネクタイ企画は、デザインが何度も練り直され、企画書も改訂版を重ねて進みました。そして、出来上がったサンプルを見せてもらって、私たちは度肝を抜かれることになります。

 予想していたのは、当然のように作品を生地にプリントしてテキスタイルパターンに落とし込んだ商品です。ところが、手渡されたのは、見事な「織り」で作品を再現したネクタイ。マーカーのかすれやタッチまでも忠実に再現され、原画では無地の紙であるホワイトの部分に、一種類の糸ではなく隣の色との境目部分の糸や織り方を変えて、色彩と無地との境界のコントラストを強調したりしています。

 これは原画の翻訳だ、と思いました。本来の作品を表現するには、絵の色彩と形をただ機械的に似た色の糸に置き換えるのでなく、どんな「織りの言語」に置き換えるべきなんだろうと試行錯誤を繰り返し、織りの言語で作品を再構築する。この「翻訳」をした方のセンスと技術の卓抜。それはもう、尋常じゃないクオリティのものが目の前にありました。

 「銀座田屋」さんの名前を崇弥さんから聞きました。さすがの一言です。

知的障害のある人たちの作品が、老舗紳士洋品店「銀座田屋」織物工房によってシルク織ネクタイ「HERALBONY ART NECKTIE」に。細やかな糸使い、織りの技術が光る(C)株式会社ヘラルボニー

 田屋さんの技術に敬服しながらも思ったのは、ここに到達するまでに、MUKUメンバーたちは相当の苦労をしたのだろうということです。

 やはり、聞いてみるとたくさんの製作会社を探して交渉したけれど、不可能だとことごとく断られたり。それでも諦めずに田屋さんに行き着き、比類ない品物を完成させたダイナミックな実現力。作品を初めて知った当初の決意から、このクオリティまでの飛躍──この勢いで次の一歩も踏み出すとしたら、二歩目、三歩目……はいったいどのレベルまで行ってしまうんだろう。

 田屋さんにしても、表玄関から行ったら断られるだろうからと、工場という、いわば裏口からのトライだったそう。信念に忠実に、思い描いたものが実現するまでは何があっても引かないガッツ、肝の強さ。その結果、これほどまでに美しいものが創出されたわけです。彼らのそのスタイルが連続していったときに、この先、一体、何を生み出していくのか──すごく楽しみになりました。

 こうしたMUKUのプロダクト企画は、文登さん、崇弥さんにとって実験だったんだろうと思っていたんです。思い描いているビジネスモデルが世の中に通用するのかどうかを試すための。だから、これだけの手ごたえを得たんだから、私は、法人化はいつするんだろうとも思っていました。

早苗さん、嬉しいの? 嫌なの?

 ボールペンの線を何重にも重ねていくつもの黒い丸が描かれた佐々木早苗さんの作品も、MUKUのネクタイに採用されました。

 実はネクタイが出来上がったときの早苗さんの反応が、よくわからなかったんです。嬉しいのか? ひょっとしたら嫌だったのか? 私は早苗さんの様子に戸惑っていました。ほかの作者さんは見るからに喜んでいるのがわかる人が多かった。でも、早苗さんはどう感じているかがわからなかった。

 そこで思い当たったのが、早苗さんの作品が、どうして、どういうプロセスでネクタイになったのかを、本人が十分把握できるまで共有する作業が十分できていなかったのではないかということ。

 障害のあるなしにかかわらず、作者によっては、作品は出来上がったオリジナルの状態でその一点が存在することが大事であって、何かに二次利用される展開は望んでいないということもあり得ます。まして、「描かずにいられないから描く」という根源的な動機で制作している知的障害のある作者にとって、描き上げたものが別の何かにアレンジされる現象自体、困惑させられる場合もあるということは想像ができます。果たして、早苗さんの本当の願いは。それを確かめねばなりませんでした。

 絵を描く、それも傑出した作品を生み出す方々だけでなく、知的障害のある方たちと接する上で知っておかなければならないことがあります。

 言語が発せない、あるいは語彙が数語、数十語しかないという方たちは、自分に思いや考えがあることを伝えようと思っても、周囲には結局伝わらないんだという「学習性無力感」を、物心つく頃からずっと経験してきている可能性が高いと思います。

 成人する頃には、自分の「思い」は伝わらない、こんな「思い」などはないものとしてあしらわれるのも仕方がないという諦めが、彼らの中にできあがってしまう。でも、その「思い」の存在に気づいてくれた人に出会ったとき、閉ざされていた壁の隙間から忽然と光が差す。あるいは、言語以外で「思い」を表出する方法を得られたときも、同じように一条の光が差すのだと考えます。

 光が差す隙間を本人がこじ開けることはすごく難しいです。まわりの想像力──もしかしたらこんな風に言いたい・したいのかもと思い描くイマジネーション、気づく感性、さまざまな未知の可能性を信じること、それらがあって初めて隙間がこじ開けられるのです。

 MUKUのプロジェクトによっても、多くの作者さんたちにひと筋の光が差したでしょう。

 でも、福祉に携わる人間の間では一般的に、福祉とビジネスを結びつけることは少なからぬリスクをはらんでいると警戒されていることは否めません。営利のために市場・マーケットの需要を喚起し続けなければいけないビジネスに、そもそも経済原理や生産性の尺度によって疎外されてきた人たちの作品をつないでいく。しかも、これまで福祉業界圏内にはなかった勢いで、爆発的に動き出したのがMUKUです。

 大きな潮流の前では個の人間の心の世界、そして精神世界というのは、どんなに配慮を訴えても簡単に飲み込まれてしまう。大事なものが踏みにじられるのではないか、搾取されるんじゃないかという心配は、実はるんびにいの職員の間にもあったんです。

 一方で、松田さんたちが作り出す流れは一層、強く速くなっていく。もし、心配だけが高じて、るんびにいが「これ以上、協力はできません」と協働をストップしても、彼らは「じゃ、止めます」と事業を中断するようなことはなかったでしょう。きっと違う福祉施設を探り当て、作者さんと作品を世に出すことに邁進したはずです。

ヘラルボニー創設にあたって

 松田さんたちの会社「ヘラルボニー」が2018年7月に設立される報告をもらいました。MUKUの提携先はるんびにいだけでしたが、これを機に、全国の福祉施設、全国の作者さんに対象が拡大していくことになりました。

 今もそうですが、崇弥さんは東京に拠点を置き、文登さんは盛岡。花巻まで法人化を知らせに来てくれた文登さんに、念押ししたことがありました。

 それは、「作者本人としっかりコミュニケーションしてほしい」「製品化決定までのプロセスに、作者の同意が不可欠となる手続きを組み入れてほしい」ということでした。

 多くの施設、多くの作者さんが、作品を商品化し流通させることに対して、おそらく素直に喜ぶ場合が多いでしょう。これは、成果物が完成する前からある程度予想がつくことです。けれども、その予断こそが危険だと思うのです。最初から作者さんが喜ぶものと決めつけて進めるべきではない。本当に喜ぶのか、作者さんが最終的にやってよかったと本当に思えるのか、一人一人、一つ一つの企画について確認していくべきだということをお話ししました。

 たとえば、ある人は作品の全体像をプリントする形だったら喜ぶけど、トリミングが入るとなったらがっかりするかもしれない、または、あらゆる二次利用を喜ばない人もいるかもしれない。そう伝えました。

 文登さんはさっそく、早苗さんの次の企画からすべての商品について、1年ぐらいかけて、本当にOKと思っているんだろうかという確認を、本人の反応を見ながら丁寧にやってくれたんです。

 ネクタイでは、NGという感じは見えなかったけれども、嬉しいという感じも見えなかったことはお話しした通りです。それ以外でも、早苗さんの作品の「複製画」が飾られたことがあって、一緒に見に行ったんですが、早苗さんは特にニコリともしなかった。ここにどういう早苗さんの気持ちを読み取るべきなのか。提案されたことについても、もし嫌なら「嫌だ」と伝える表現を早苗さんは持っている──地団駄踏んで駄々をこねるみたいにはっきり拒否する──でも、しばらくしても、そういう意思表示はしなかった。本人の様子を見ながら、丁寧にやっていきましょうと文登さんたちにもお願いすると、本当に地道に対応してくれました。

 喜んでいるのかはわからない。かといって、NGの表現が出ていないのに、私たちが「これはだめかもしれない」と早々に中断するのも、こうした取り組みが早苗さんの喜びになる可能性をこちらが勝手に撤収してしまうことになる。とにかく、どちらかはっきりわかるまでやってみようと。そういう前提で進めました。

 文登さんは副社長なのに、何度も自分でアトリエに来てくれました。

 毎回Macを携えてきて画像を見せ、早苗さんに敬意を持って、言葉を選んで少しでも多く伝わるように、かみ砕いて説明を重ねてくれました。企画のイメージをグラフィックで見せて確認して、試作やスケジュールの進み具合を報告して……。そういうプロセスが続けられていたある日、文登さんがアトリエに入ってきた瞬間に早苗さんがにっこりと笑いながら、「あっ」って立ち上がったんです。明らかに歓迎していました。

 それで「こんにちは」と言いながらMacを手にした文登さんが隣りに座ると、「そのパソコンで今日は何を見せてくれるの?」っていう素振りで、「早く、早く」と言いたそうにパソコンをのぞき込んだ。文登さんが画面を開くと、文登さんの横でテーブルに両手をついてフンフンと見ている──あ、これは、早苗さんの喜びになったんだって、やっとわかった。

 直接のコミュニケーションを何回か重ねる中で、彼が「こういうのやりたいんだ」というアイデアを持ってきて、それがやがて形になっていく。そのやりとりを早苗さん自身が繰り返し経験する中で、企画の出発点にある文登さんの思いや、それが具体化していくプロセス、最終的に完成した形という、そういう一連のものの全貌を早苗さんが把握できていったのではないかと思います。早苗さんの楽しみになっているとはっきりわかって、ようやく安心して企画を進めることができるようになりました。そうなるまで1年かかったのです。

 ほかの作者さんについても丁寧に丁寧に、本人の喜びになるのかっていうのを一人一人確かめていきました。文登さんはまったく面倒がらず、真剣に、一生懸命、足を運んで対応してくれました。

 八重樫季良さんも、同じプロセスの末に実現した駅舎ラッピングをすごく喜んでいました。妹の智子さんと文登さんと、完成した駅舎を見に行ったときの映像が残っていますが、ニコニコしてそれはうれしそうにしています。

2019年12月13日~26日、JR花巻駅が八重樫季良のアート作品でラッピングされた。花巻が生んだ作家・宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の世界を彷彿とさせる(C)株式会社ヘラルボニー

 失敗したこともあったんですけどね(季良さんの作品を立体の建造物に構成して展示する試みで、最終的に作品の一部を切り取って構成する形で完成してしまった。断片化されるのは、季良さんにはとてもがっかりする形態だったのです)。でも、失敗したケースも参考にして積み重ねていって、最終的に作者さんが喜ぶもの、作者さんと喜びを分かち合える企画を目指して進めてくれた。そういった作者さんとの共同プロセス自体も、作者さんの喜びになっていったんです。

 ヘラルボニーさんが、この姿勢と確認の過程を固持してくれていることは、本当に大事なこと、ありがたいことです。

 ともすると一般的には、「これやってあげたらきっと喜ぶでしょ? 今までスポットライトが当たったことない人にこんなことしてあげたら、そりゃ嬉しいでしょ、障害者のみなさん?」という、慈善ステレオタイプに陥りかねません。お仕着せではなくて、本当にその人たちが納得して喜ぶ「幸せ」、それを確かめながら追求して実現していくというのは大きな転換でした。もちろん、結果としてご家族もとても喜ばれています。

「障害者」を主語にしない

 早苗さん、季良さん、小林覚さん……るんびにいで出会ったたくさんの人たち。彼らとの出会いを通して学んだのは、障害があることなど関係なく、一人一人が「個」の人間であって、「障害者」とひとくくりにカテゴライズすることがいかに危ういかということです。「障害者は」と主語になってしまうと、個人は、あってないものになってしまいます。

 障害に限らず、人間をカテゴリーでくくってしまうことはとても危険です。その人の個性や物語、歴史、関係性というものを全部そぎ落として「個人」ではなくしてしまう。人間からそういう考えを排除できないとしても、意識的に抑制に努める必要はあると考えます。

 事業の社会的影響力がどんどん大きくなっていくにしたがって、ヘラルボニーが個々の作者さんにどう向き合ってきたかということは、知的障害のある方たちとの関係のあり方として、間違いなく社会においてのプロトタイプになると思いました。だから、模範となる形であってほしいと願いました。

 いちいち、一人一人の「個」に対応するなんて、効率とスピードが要求されるビジネスに適合しないでしょう。加速している成長のブレーキにもなりかねない。でも、一見、営利と矛盾しかねない作業かもしれないけれど、それを大切にし続けることに挑戦しながらビジネスも拡大させることが、ヘラルボニーならできるのではないか。実際、その試みができているから、今までになかった企業として成功を続けているとも思うのです。

 

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松田文登(まつだ・ふみと)

株式会社ヘラルボニー代表取締役副社長。1991年岩手県生まれ。東北学院大学卒。株式会社タカヤで被災地の再建に従事後、双子の弟・崇弥とヘラルボニーを設立、営業統括。2019年に世界を変える30歳未満の30人「Forbes 30 UNDER 30 JAPAN」受賞。岩手県在住。

松田崇弥(まつだ・たかや)

株式会社ヘラルボニー代表取締役社長。1991年岩手県生まれ。東北芸術工科大学卒。オレンジ・アンド・パートナーズのプランナーを経て、双子の兄・文登とヘラルボニーを設立、クリエイティブ統括。2019年に世界を変える30歳未満の30人「Forbes 30 UNDER 30 JAPAN」受賞。東京都在住。 

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