ニコライ村の風景(筆者提供、以下同)
マルチスピーシーズ民族誌という文化人類学の潮流が注目を集めている。従来の民族誌が地域の人々の生活を描くのに対し、マルチスピーシーズ民族誌は人々が動植物や細菌、精霊といった「多種(マルチスピーシーズ)」との絡まり合いの中で存在している様を描く。こうした視点は「人新世」の人間中心主義を乗り超えるヒントになる。

マルチスピーシーズ民族誌とは?

「人新世」という言葉を聞いたことはあるだろうか。その名の通り、「人間の時代」のことである。より正確には人類の活動が地球全体に大きな影響を与えるようになった時代のことを指し、まだ正式な地質時代としては認められていないが、第二次世界大戦が終結した1945年以降、もしくはイギリスで産業革命が始まった18世紀後半以降とする説が有力である。豪雨災害や猛暑などの異常気象が相次ぐ現在、気候変動に関連する事柄について見聞きすることも増えているが、私たちは今や「人新世」の渦中にいる。

 マルチスピーシーズ民族誌は、人新世という時代への応答として生まれた文化人類学の一潮流である。しかし、そもそも「マルチスピーシーズ民族誌」とは少し不思議な表現である。そのことから説明させてほしい。まず「民族誌」とは、文化人類学者が長期の現地調査で得た知見をもとにその地域の人々の生活について描く記録のことである。そのため、民族誌は、基本的にはその地域に住む人間の社会に焦点を当てたものとなる。他方で、マルチスピーシーズは「多種」とも訳される。ここでの「多種」は、動植物、細菌などの生物や、精霊、機械、土地のような存在まで含むものとして考えられている。これらの説明からもわかるように、マルチスピーシーズ民族誌は、人間だけでなく「多種」に焦点を当てた長期調査の記録ということになる。

 それでは、なぜ「多種」に焦点を当てた調査記録が人新世への応答になるのだろうか。人新世の解決策を探る文脈では、人為的に地球の気候を寒冷化させる気候工学のアイディアが議論されることがある。人新世は、人間が科学技術の力を通して地球環境を改変してしまった時代であるとすれば、その解決策を握るのも人間のはずであり、今度もまた科学技術の力を使って地球環境を元に戻せばよいのではないかという発想である。

 科学史家のダナ・ハラウェイは、このような気候工学的な発想を厳しく批判し、人新世という考え方自体が人間中心主義であると指摘する。ハラウェイは、「伴侶種」という言葉を提唱し、人間が独立して存在するのではなく、人間を含む多種が互いに互いをつくりあうような関係性を論じていた。マルチスピーシーズ民族誌は、伴侶種の思想と人間中心主義批判を引き継ぎ、人間を含む多種が絡まり合う世界を描く。人類学者のアナ・L・チンは、「人間の本性は種間の関係性である」と述べているが、人間が人間だけで独立して存在するのではなく、多種との関係性があって初めて「人間」が成り立つという視点がマルチスピーシーズ民族誌の基本姿勢である。

内陸アラスカでのフィールドワーク

友人と出猟した罠猟でビーバーを捕獲した筆者

 北米先住民の自然観・動物観に関心があった私は、高校生の頃に読んだ星野道夫の作品に触発されてアラスカ先住民社会でフィールドワークをすることを決めた。2012~2015年にかけて合計14カ月の現地調査を米国アラスカ州ニコライ村でおこなった。

 アラスカと言えば、一年中雪に閉ざされ、イヌイットがアザラシの生肉を食べている場所というイメージを持っている者もいるかもしれないが、内陸アラスカの場合、気温差が激しく、夏の日中には摂氏30℃まで気温が上がり、真冬には摂氏マイナス50℃になる日もある。

 アラスカ北部の沿岸地域にはカナダのイヌイットと近い言語を話すイヌピアットの人々が住んでいる。イヌイット、イヌピアットはともにエスキモー・アレウト語族に属する。他方で、私が通っている内陸アラスカでは、アサバスカンと呼ばれる人々が、ヘラジカやカリブー(野生トナカイ)の狩猟とサケなどの漁撈を伝統的な生業としてきた。アサバスカンの人々は、ナ=デネ語族という別の言語グループに属する。なお、アサバスカンというのは、あくまでも研究者が言語グループを一括して名づけるために考案した総称であり、私がフィールドワークでお世話になったニコライ村の人々は自分たちのことを「ディチナニク・フターナ」(木々の川の人々)と呼んでいる。

不思議なフツァニ(禁忌)との出会い

ボブ・イーサイ・シニアさん

 現地調査を始めたばかりの頃、ニコライ村の古老ボブ・イーサイ・シニアさんはあるフツァニについて教えてくれた。フツァニとは、現地の言葉で「禁忌」のことを指す。ボブさんによれば、昔は「犬に話しかけてはいけない」とされていた。

 このような言い伝えがある。

 ある者が犬に話しかけた後、犬は突然走り出してブッシュの中に消えてしまったが、しばらくして戻ってきて「いずれこの辺りは一面、野原になる」と予言した。すると実際、はやり病でその村はまもなく全滅してしまった。

 そのため、この言い伝えにあるように、犬に話しかけることは病の流行を招きかねない不吉なことだとかつては考えられていた、とボブさんは語る。

 20世紀前半以降、このフツァニは遵守されなくなる。だが、19世紀末から20世紀初頭にかけて犬ぞりの技術が外部から入ってきたばかりの時期には、犬に号令をかけるのではなく、人がそりの前を歩いて犬たちを先導していたとも言われている。

 ボブさんが教えてくれたもの以外にもいろいろなフツァニが知られている。フィリップ・イーサイさんが教えてくれたのは、「月を見つめすぎてはいけない」というものだ。すべての存在が人間であったはるか大昔の時代、月は兄弟を殺してしまった。月は兄弟の遺体を抱えて天に上り、現在の月になったとされる。月はその罪を恥じて、情緒不安定なので、誰かに長時間見つめられると怒り始めて洪水をもたらす。日本では月にウサギがいると言われているが、フィリップさんの物語は月の模様が死んだ兄弟を抱えている姿に見えたということを意味しているのかもしれない。

 このようにフツァニの中には人間が人間以外の存在と関わる際の注意点を述べているものがあるが、それらは犬や月のような人間以外の存在が人間の言葉や視線を理解して、それに応じた行動をとることができるという考え方に基づいている。

「残り鳥」を保護する人々

 ニコライ村では雪が降り始めると「残り鳥」が話題になる。内陸アラスカには多くの渡り鳥がやってくるが、その鳥たちの多くは夏にアラスカで子育てをして、秋になると南に渡ってしまう。ただ、渡りをするはずの種の中にも、何らかの理由で渡りを始められずにアラスカに居残ってしまう個体が見られる時がある。ニコライ村の人々は、そうした鳥たちが寒さと飢えに苦しむのを見かねて、冬の間保護し、春になると放鳥する。おもしろいことに、渡り鳥が自由に行動できる春や夏に捕獲して飼育するのは禁止されている一方、「残り鳥」になった渡り鳥を秋に捕獲するのは良いことだとされている。

 前述したフィリップさんと妻のドラさん夫妻は、「残り鳥」を保護するのを冬の間の楽しみとしていた。2014年にフィリップさんは亡くなった。その年の秋になると、夫に先立たれて悲しむドラさんのために親戚たちが気を利かせ、「残り鳥」を捕まえようとした。11月には、クロムクドリモドキの「残り鳥」が捕獲され、「チャガ」と名づけられた。チャガは、ドラさんの隣に住む彼女の孫が保護することとなり、テーブル上にこぼれたクラッカーやパンの切れ端をつまむ鳥になったが、2015年4月に死んでしまった。

チャガがテーブルの上で食パンの欠片をつつく

「交感しすぎない/構いすぎない」という知恵

 この「残り鳥」の話は、ニコライ村の人々の「多種」との関係性を物語っている。

 現地調査を続けていく中で、ニコライ村の人々が「多種」と向き合う姿勢は、「交感しすぎないこと」と「構いすぎないこと」なのではないかと考えるようになった。

 一部のエコロジー思想の中で語られるネイティブ・アメリカンは、精霊や動物たちと言葉を交わし、深遠な儀礼で自然のリズムと同化し、そのような森羅万象のつながりの中で生きている人々とされる。

 私は幼少の頃に北米先住民チェロキーの少年が登場する物語を読み、北米先住民の文化や世界観に関心を持つようになった。その物語の中では、少年は祖父の教えを守り、グレートスピリット(世界を創造した精霊)に祈りを捧げ、自然の恵みに感謝して生きていた。そのような環境主義者としての先住民イメージがすべて間違っているとは言わないし、アサバスカンの人々にも当てはまる部分がないわけではない。実際、マルチスピーシーズ民族誌は人間を単独の存在ではなく多種との絡まり合いの観点から考える分野なので、ディープエコロジーやニューエイジの言説と近しいものを感じている人もいるかもしれない。

 しかし、私がフィールドで見たものは多種との「絡まり合い」の煩わしさのようなものであった。近年、マルチスピーシーズの考え方は、環境倫理学の文脈でも注目され始めているが、私はニコライ村の人々から学んだ多種倫理として「交感しすぎない/構いすぎない」という知恵を提案したい。

 フツァニの事例をよく考えてみるとどうだろうか。「犬に話しかけてはいけない」という禁忌は、犬に話しかけることが犬の返答(=恐ろしい予言)を招くため守る必要があるとかつて考えられていた。同じく、「月を見つめすぎてはいけない」という禁忌は、月が人間の視線を感知し、それに応じたふるまいを見せるという考えがあるから成立する。確かに、ニコライ村の人々は、「多種」と交感する世界に生きている。他方で、そのことは、多種との交感が必ずしも常に望ましいことであることを意味しない。これらの禁忌が示唆するのは、多種といとも簡単に交感してしまうからこそ、口を閉じ、目を背けなければならないということだ。交感しすぎることへの不安は、人間以外の存在が持つ力を真剣に受け取っている証拠である。

「残り鳥」を保護する話はどうだろうか。ニコライ村の人々は、内陸アラスカを訪れる鳥たちの生に関心を持ち、慈悲深い気持ちで接している。だが、その気持ちがあるからこそ、渡り鳥たちが自分たちの力で生きることができる春や夏には介入せず、秋以降に「残り鳥」として困窮している個体のみ飼育対象とする。構いすぎないことで、鳥も人も互いを束縛せず、みずからの生を謳歌することができる。

「交感しすぎない/構いすぎない」という一見消極的な彼らの身構えは、多種とのしがらみを生き抜く知恵である。彼らの身構えから考えていくと、冒頭で論じた気候工学のような手法は人間中心主義的な考え方に基づいて自然を改変していく「構いすぎる」あり方なのではないか。月の物語を語っていたフィリップさんは、アポロ11号の月面着陸というニュースを聞いて激怒したと言われている。遠くからの人間の視線にも辱めを感じてしまう情緒不安定な月はそっとしておくべき存在であるのに、「白人」たちはあろうことか月を足蹴にしてしまった。フィリップさんは、人類の月面着陸以降、世界がいつ大洪水に襲われるかわからない時代になったと周囲に語っていた。彼の懸念は、豪雨災害を始めとする異常気象に見舞われるようになった私たちにとって決して他人事ではない。マルチスピーシーズ民族誌が人新世の人間中心主義を超えて、多種世界をより豊かに描くためにはこの身構えを射程に収めることが有益なのではないかと考えている。

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