大久保利通は人々が結束して進んでいける「オールジャパン」のチームを作り出した (国立国会図書館蔵)
昨年、『大久保利通―「知」を結ぶ指導者』(新潮選書)で毎日出版文化賞を受賞した瀧井一博氏。同書で示された大久保の「知識のプロモーター」としてのリーダーシップは、長期停滞にある現代の日本にとっても多くの示唆を与えてくれる。

 

独裁者・指導者としての大久保像

 大久保利通といえば、言わずと知れた大政治家であり、西郷隆盛や木戸孝允と並んで「維新の三傑」として日本近代史に君臨している、明治維新の代名詞ともいえる人物である。そのような歴史的存在であるから、当然、大久保についての文献や研究は汗牛充棟というくらいにある。古くは戦中に清沢洌、戦後になっては毛利敏彦、佐々木克、勝田政治、落合功、笠原英彦といった諸氏によって、その政治指導の真髄や目指した政策の意義を明らかにする幾多の優れた評伝が著されてきた。

 これらの業績によって、自己の信念をぶれずに堅持し、国家の難局にあって毅然と、時に冷徹に処分を行った独裁的権力者としての姿、また民力の要請に努め、立憲国家を遠望し、その地ならしをした卓抜した指導者としての姿が提示されてきた。拙著もこれら先行研究に負うところ大である。では、こういった錚々たる大久保論がすでに存在するにもかかわらず、なぜ筆者のような者が新たに大久保の評伝を付け加えようなどと思い立ったのか。

大久保は「神輿」だったのか

 実のところ、近時の歴史学では、大久保の指導力について疑問符をつけるような研究がいくつか発表されている。各種史料のデジタル公開が促進されたこともあって、明治政府のもろもろの文書へのアクセスが格段に容易となった。そのことから、政府内部の政策形成過程や各省庁内部の組織力学の分析や考察が深化している。なかでも、小幡圭祐と松沢裕作両氏の共著論文「『本省事業ノ目的ヲ定ムルノ議」の別紙について」[1は綿密な史料批判で、圧巻である。「本省」とは、大久保独裁の牙城としてその肝煎りで設立された内務省を指し、ここではその綱領文書としてかねて特筆されてきた「本省事業ノ目的ヲ定ムルノ議」の成立過程が詳密にトレースされ、それが内務省の配下の官吏たちの自発的建策を集成したものであることが明らかとされた。そして、その結論として、次のような重要な問題提起がなされている。「大久保内務卿の政策上の主導性はどのように評価されるべきか、という点は、本稿の検討を踏まえたうえで再考を要するものであろうと考えられる。言葉を換えれば、従来自明のこととされてきた大久保の省内統制と政策への関与の実態の再検討が求められることとなろう」、と[2]

 この研究にとどまらず、政府の首脳部のなかにおいても、大久保は必ずしも強権をふるって政府内を支配していたのではなく、むしろひと世代下の井上馨や大隈重信に政策面では依存していたとの指摘も見受けられる。「大久保独裁」とか「大久保政権」という語は虚構であるとの理解に、現在の歴史学は傾いていっている。

 ここで筆者はひるがえって考えてみたいと思った。そのような研究の流れのなかで、大久保の政治家としての力量とはどのように見直されることになるのか。果たして、大久保とは、見た目のいかつさとは裏腹に、部下や同僚たちに担がれた神輿の上の存在だったのか。そのような結論になるとしたら、筆者には多大な違和感があった。

ハーバード大学で『大久保利通日記』を読む

 以前から筆者は大久保の文書や日記など刊本史料をちまちまと読み進める作業をやっていた。そのきっかけは、2013年から翌年にかけて、機会を与えていただき、1年間アメリカのハーバード大学に滞在したことである。

 私が大学院生のころまでは、大学の若手教員が2年間くらい海外に遊学することは決して珍しくなかった。しかし、今では、1年間在外研究することも困難になっているのではないか。アメリカでは、数年間教育と学内運営に従事したら1年間の研究休暇が与えられるというサバチカルと呼ばれる制度がある。アメリカをモデルにするならば、こういった部分を見習ってほしいものである。私の職場にサバチカルがあるわけではないが、周囲の皆さんの御理解で長期の在外研修が実現した。

 とはいっても、明確な研究の目標があって、渡米したわけではない。だから、子供たちの学校の手続きなどが終わり、生活を軌道に乗せることができた後、「自分は一体何をしに来たのだろう」と虚脱状態になった。ハーバードには、イェンチン図書館という全米有数の東アジア研究の専門図書館がある。日本近代史の文献も揃っている。気を取り直して、基礎的な文献をじっくり精読しようと思い立った。選んだのが、『大久保利通文書』と『大久保利通日記』である。

「知の政治家」伊藤博文と大久保の違い

 以前に、伊藤博文について本を書いた時以来(拙著『伊藤博文―知の政治家』中公新書、2010年)、伊藤の思想的系譜を辿りたいとの思いを持っていた。伊藤の評伝には、「知の政治家」という副題をつけた。伊藤は、知識を学び、それを生み出す人々を作り出し、そのような人々によって担われる国家を理想としたのではないか。彼は、「知の国制」と呼ぶべきものを構想したのではないか。そのような見立てで、伊藤論をものした。伊藤を書いた後から、このような「知の政治家」の系譜に位置する者として、大久保の存在が気になってきた。そこで、この際、時間だけは豊富にあるのだから、じっくり腰落ち着けて大久保の史料を読んでいこうと思い、それを実践したのである。1年間の在米中には全巻を通読することはできなかったが、そこでエンジンをかけることができたおかげで、日本に帰国後も耐久的に読み進めることができた。それというのも、読書に没頭できるアメリカでのあの時間があったからである。人文学における時間の大切さを思う。

 さて、大久保はどのような意味で「知の政治家」だというのか。伊藤を「知の政治家」と形容した時も怪訝に思われたものだが、大久保の場合はもっと奇を衒って映るだろう。大久保にことさら文才や学問があったわけではない。この点は、伊藤と大きく異なっている。軽佻浮薄な政治家とのイメージがある伊藤だが、その一方で彼は大変な読書家で、英語を駆使して海外の政治家や学者と自らコミュニケーションをとる才覚の持ち主だった。

 かたや大久保の方は、そのような知性とは無縁であるように見受けられる。彼の政治家としての本領は、倒幕や征韓論政変、台湾出兵や西南戦争といった国家的危機を果断と剛腕で乗り切ったその度量にあるのではないか。具体的な政策立案が、最近の研究で明らかとされたように、周囲や配下の者たちのお膳立てであったとしたならば、いっそう大久保と知は縁遠いものと言えよう。

「羊飼い」型のリーダーシップ

 確かに大久保は、自分自身が知の人だったとは言えまい。だが、筆者が拙著で示したかったのは、大久保は知識のプロモーターであり、知識の機能を心得ていたからこそそうであろうとした、ということである。知識の機能、それが副題に入れた「結ぶ」というものである。大久保は、知識を通じて人々が結び合わされ、それを通じて日本という国家が立ち上がるのを期した。この結ぶということが、大久保のリーダーシップの要諦だったと思われる。それは、ネルソン・マンデラが説く羊飼いのたとえに通じるものがある。マンデラは、人は自分のことをリーダーと呼ぶが、そうではなく、自分は羊飼いのようなものだ、と述べている。

羊飼いは群れの後ろにいて、賢い羊を先頭に行かせる。あとの羊たちはそれについていくが、全体の動きに目を配っているのは、後ろにいる羊飼いなのだ。[3]

 拙著で論じようとしたのもこのことである。大久保は羊飼いだったのではないか。彼のリーダーシップとは、後ろからついていくことだったのではないか。

 このことは、王政復古クーデタや征韓論政変、北京談判などの危機に際してとった辣腕や胆力ある指導力と矛盾しない。羊飼いは羊たちの後塵を拝するが、最後尾から全体の動きを見守り、遠方を見はるかす。群れの行く先に難路や危険があったならば、羊飼いは前に出て羊たちを止め、障害を除去したり進路を変更するなどして導く。大久保もまさにそうであった。

 それのみではない。賢い羊たちを選抜し、群れを作ったのが、そもそも大久保だった。大久保にとって明治維新とは、人々が結束して進んでいけるオールジャパンの「群れ」=チームを作ることだった。そのために、明治になると彼は、人集めに専心する。特に、かつての幕臣や佐幕派だった諸藩からも有為の人士をリクルートし、政府内に登用することに躍起となった。内務省とはそのような大久保の構想の延長線上にあるもので、彼のブレイントラストだったと目せる。才覚あり、新たな知識を創発できる人物を見極めて取り立て、そのような者たちに活躍の場を与えたのが内務省であり、さらに言えば、大久保にとって国家というものがそのためのものだったと考えられる。そのことを拙著では、大久保畢生の事業となった明治10年(1877年)の内国勧業博覧会について論証している。詳細については、ぜひ拙著をひもといていただきたい。

知のモビリティーが明治維新を可能にした

 大久保はオールジャパンを作ろうとした。そのために、彼が切り捨てたものもある。それは、自らの故国である薩摩藩であり、自分の出自である士族であった。維新の大義を追求した大久保は、守旧的なもの、新たな国家統一の障害となるものを非情に切り捨てた。彼は、維新後の日本は、それまでの武家や公家とは異なる別の人々によって担われるべきとの考えに想到していたと思われる。

 いずれにせよ、彼はそのように新国家を引っ張っていった。新たな国家を担う人々、それは前述のような知識の持ち主であり、それを創り出せる人たちである。そのような人たちは、決して明治維新後に突然現れたのではない。その背景として、江戸後期から日本全国で様々な知の修得がなされていたことがある。一般にイメージされているのとは異なり、江戸時代とは人々のモビリティーがけっこう盛んな社会だった。その駆動因となっていたのが、知である。日本の各地に学問を教える学校や私塾ができ、そこには知識を求める若者が藩の閾をまたいで遊学していた。幕末の志士たちによる草莽崛起、処士横議、言路洞開といった運動も、そのような知識を求めての有志たちの交流が政治化したものとして捉えることができる[4]

 そのような知を通じたモビリティーの高まりが、明治維新を可能とした条件だったのではないか。この点を究明していけば、明治維新を知識による革命、知識革命だったと見なすことも可能になると期待される。拙著の執筆は、期せずして、そのような明治維新像へと筆者の目を開かせてくれるものだった。

知識交換の土台の上に

 大久保による知識革命は、もうひとつのことを示唆している。これまで江戸後期の私塾を中心とする知の結社が、志士による政治運動のカンフル剤となったことは指摘されてきた。しかし、大久保が依拠しようとしたのは、それとは異なる別個の知の底流だったのではないか。それは、在地の豪農・老農や豪商を担い手とする知である。

 大久保は明治に入って、東北地方など日本各地を巡視するなかで、至るところにそのような知の担い手を発見した。彼らは、開国後の経済社会の変動に直面し、それを切り抜けるために新たな産業を育成するなどして地域の人々の生活を守ろうとしていたその土地の牧民的名士である。その営みを孤立した単発のものに終わらせてはならない。その思いで、大久保は内務省で政策を作らせ、そして勧業博覧会を催して、彼らの知を掘り起こし、その共進と循環に努めたのである。大久保にとって明治10年の博覧会とは、知識交換のためのものだった。さらにひいては、殖産興業それ自体が、知識交換の土台の上に展開されるべきものだったのである[5]

 大久保の人生が体現しているのは、尊王攘夷や倒幕運動という政治変動の帰結としての明治維新とはまた異なる隠された維新の精神である。拙著はその隠された伏流を筆者自身が見出していくプロセスを記録したものともなっている。その伏流を発掘する現場に読者を誘うことができたならば、書き手としての本懐である。

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[1]『三田学会雑誌』第110巻一号(2017年)、75頁以下。オンラインで読むことができる。https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234610-20170401-0075

[2]小幡圭祐・松沢裕作「『本省事業ノ目的ヲ定ムルノ議』の別紙について」、91頁。

[3]ネルソン・マンデラ(東江一紀訳)『自由への長い道』上巻(日本放送出版協会、1996年)、42頁。

[4]前田勉氏の一連の研究を参照。ここでは、同著『江戸の読書会』(平凡社ライブラリー、2018年)のみ挙げておく。

[5]大久保自身が、同会の開会式にて、「観覧以テ其智ヲ進メ討究以テ其識ヲ伸フ」と謳い上げている。『大久保利通文書』第8巻(日本史籍協会、1929年)、368頁。

 

 

 

 

 



 

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