リベラリズムの根幹を揺るがすような世界の混乱が続く。この状況を打破するには(GoodIdeas / Shutterstock.com)

 フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』が、冷戦を終えた世界に大ベストセラーとして迎えられ30年が過ぎた。そこで示された自由民主主義が恒久的な平和と安定を実現する「ポスト冷戦」の世界像は、しかし、いまやロシア・ウクライナ戦争やキャンセル・カルチャーなど混乱の中で完全に否定されたようにも見える。かつてフクヤマが見たのは幻想なのか。それともこの混乱は、やはり歴史が“終わりつつある”過程の光景なのか。フクヤマの最新刊『リベラリズムへの不満』を待鳥聡史氏が読み解く。

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「ポスト冷戦」の後に

 2016年のブレグジット(イギリスのEU脱退)決定、ドナルド・トランプのアメリカ大統領当選、2020年に始まる新型コロナウイルス感染症のパンデミック、米中対立のさらなる深刻化、そして2022年からのロシア・ウクライナ戦争――私たちは近年、明らかに世界の様相が変化し、何らかの意味で新しい時代に入りつつあることを実感しているのではないだろうか。次の時代がどのような特徴を持つのか、それがいつ頃に明確な輪郭を示すようになるのかはまだ分からないが、一つの時代が終わったという印象は拭いがたい。

 終わったと思われる時代は、しばしば「ポスト冷戦」と呼ばれてきた。「ポスト」という表現からも分かるように、それ以前の冷戦期に比べると明瞭な対立軸はなかったかもしれないが、特徴を欠いていたわけではない。自由で開放的な国際秩序が望ましい基本原理とされ、その下での具体的な方向性として、国際的にはグローバル化、国内的には民主化が追求されてきた。根底にあった理念は、自由主義(リベラリズム)であった。

 フランシス・フクヤマは、ポスト冷戦期を代表する政治思想家である。1989年の「歴史の終わり?」論文以降、リベラリズムの理念とそれに基づく政治制度の重要性、およびそれが確立される歴史的な展開について、数多くの骨太でダイナミックな著作を通じて論じ、世界に大きな影響を与えてきた。フクヤマの議論は、サミュエル・ハンティントンの「文明の衝突」論と並んで、1990年代以降の国際秩序を考える上では今日なお必読である。

 フクヤマの最新作である『リベラリズムへの不満』は、2022年に原著が公刊され、このたび会田弘継の優れた翻訳により日本語版が公刊された。共産主義や権威主義といった他の政治理念との対比においてリベラリズムの優位性を論じてきたフクヤマが、リベラリズムの内なる課題を論じた意欲作である。これまでのフクヤマの主要著作に比べれば分量的にコンパクトであり、訳文の明快さも手伝い読みやすいが、古今の政治思想に関する深い造詣と世界を見渡すような視野の広さ、そして今日的課題への鋭敏さなど、彼の知的営為のエッセンスが随所に現れている。

リベラリズムの内なる課題とは

 ポスト冷戦期の世界において、間違いなく指導理念であったリベラリズムには、現在どのような課題があるのだろうか。フクヤマは、17世紀半ばのヨーロッパにおける宗教戦争終結の時期に起源を持ち、フランス革命・アメリカ独立革命・産業革命の経験、共産主義・ファシズムなどとの対決を通じて形成された「古典的リベラリズム」に対して、今日大きく3つの方向からの侵食が生じていることを指摘する。

 1つはネオリベラリズムによるものである。古典的リベラリズムの主要な構成要素であった経済的自由や個人主義に基づく自己責任原則が過剰に重視され、政府による社会経済的介入を拒絶するようになると、リベラリズムに立脚した社会には不平等が広がり、連帯は失われてしまう。フクヤマは、『リベラリズムへの不満』第1章でイギリスの政治哲学者ジョン・グレイを引用しつつ、古典的リベラリズムは個人主義的ではあるが、平等主義、普遍主義、改革主義の要素も持つこと、社会の多様性や複雑性を前提にしていることに注意を促す。

 もう1つはアイデンティティ政治によるものである。すべての人が平等な扱いを受け、尊重されるべきであるという考え方は、宗教戦争や革命などを契機に発展してきた古典的リベラリズムにとって、もともと中核的な要素だといえる。ところが、平等や尊厳の単位が個人ではなく人種・宗教・ジェンダーなどの属性で括られる集団へと変わり、さらにはそれらの集団が持つアイデンティティを重視しない他の人々を排除(キャンセル)する傾向や、特定集団を不利に扱う構造がリベラリズムに基づく政治制度に存在すると主張されるようになると、古典的リベラリズムの基盤となる寛容は弱まり、多様性は損なわれる。

 さらに、第3の侵食は情報技術の進展によって生じている。インターネットを駆使した言論の自由への監視やフェイクニュースなどの情報操作は、主に権威主義国家をはじめとしたリベラリズムが対抗する勢力によって行われてきた。しかし今日、リベラリズムの申し子ともいえる民間企業によって、人々は整序されない情報洪水に巻き込まれて、左右のポピュリズムに動員され、さらには自らのプライヴァシーも守られない状況に置かれている。それが上に述べた2つの侵食と結びつくとき、古典的リベラリズムの原則からは守られるべき個々人の自由が商品化されたり、私的な失言によってキャンセルされてしまうといった事態につながる。

私たちにできることは何か

 リベラリズムにとって、現状は極めて苦しいものといわねばならない。今日直面する課題は、従来の共産主義や権威主義との対抗とは性質が大きく異なるためである。共産主義や権威主義、さらに遡れば宗教権力による支配などは、いずれもリベラリズムとは異なる要素からもっぱら成り立っており、リベラリズムの側は自らの優位性を主張することで対抗できた。だが、ネオリベラリズム、アイデンティティ政治、そして情報技術の進展に伴う個々人の自由の侵害は、リベラリズムの主要な構成要素の一部が過剰に強まったことによって生じており、いずれもリベラリズムにとっては獅子身中の虫なのである。

 この状況を打開する方策はないのだろうか。フクヤマが提唱するのは、古典的リベラリズムへの回帰、より具体的には、古典的リベラリズムを構成する諸要素のバランスをとることである。彼は『リベラリズムへの不満』の末尾において、古代ギリシア哲学の用語を引きつつ「中庸」の必要性を説く。先にふれたグレイによる定義は、リベラリズムが個人主義、平等主義、普遍主義、改革主義という特徴を持つとしていたが、これらのバランスを巧みにとり、特定の要素が突出しないようにすることが、最も大切になるというわけである。中庸あるいは適切なバランスが確保されれば、確かにその効果は大きいであろう。

 フクヤマが認識していながら論じ切っていない問題は、いかにしてバランスを確保するか、である。もちろん彼らしく、個人レヴェルで中庸の精神を養うための教養の復権、といった議論には向かわない。政治制度を通じた権力の抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)が役立ちうることは端々に示唆されており、実際にもアメリカ連邦最高裁判所がリベラリズムに基づく国家の運営に果たしてきた役割は大きい。今日の場合にも、ネオリベラリズムやアイデンティティ政治の過剰、あるいはプライヴァシーの侵害などに対して、一定の役割を果たす余地はあるに違いない。

 しかし、それで十分だといえるだろうか。フクヤマが言及していないこととして、古典的リベラリズムの成功の鍵は、政治、経済、文化、宗教といった社会生活の領域ごとの自律性が高く、ある領域でリベラリズムの構成要素のどれかが過剰になっても、影響が他の領域には及びにくかったことが指摘できる。グローバル化以前を想起すれば、地域ごとの自律性を加えても良いかもしれない。領域ごとの差異が価値基準の多元性を生み出し、それがリベラリズムを構成する特定の要素の突出を抑止していたのである。今日、ネオリベラリズムであれキャンセル・カルチャーであれ、社会生活のすべてを覆っており、領域ごとの自律性に基づく多元性は著しく後退した感がある。公共部門のチェック・アンド・バランスの仕組みは、このような意味でのリベラリズムの変容に対抗できるだろうか。

 当然のことながら、フクヤマがいかに卓越しているといっても、これは一人の政治思想家が解き切ってしまえる問題ではない。ある特定領域における多様性や中庸の確保だけではなく、数多くの領域から成り立つ社会が総体として多元性を確保するための構想や、リベラリズムの基本原則を共有しつつも領域ごとの自律性を回復させる構想が、求められる時代になるのかもしれない。

フランシス・フクヤマ(会田弘継訳)『リベラリズムへの不満』(新潮社)

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