違う方法で世界を観る──思弁的に出会う、文学とデザイン

鴻巣友季子『文学は予言する』(新潮社)

執筆者:渡邉康太郎2023年4月30日
文学とデザインを結ぶ「思弁」というキーワードに着目する( EFKS / Shutterstock.com )

 トランプ政権誕生で再びブームとなったディストピア小説、ギリシャ神話から18世紀の「少女小説」まで共通する性加害の構造、英語一強主義を揺るがす最新の翻訳論――カズオ・イシグロから村田沙耶香まで、危機の時代を映し出す世界文学の最前線を、数々の名作を手がける翻訳家・鴻巣友季子が読み解いた『文学は予言する』が話題だ。文学の先見性とデザインとの結節点を、デザイナー渡邉康太郎氏が見出す。

未来を想像するデザイン

 わたしはデザイナーとして働いている。

 この仕事ではしばしば、数年先の未来の世界で、企業や大学などの組織が迎えている局面を想像する。そして、その組織が目指すべき未来の姿を言語化・視覚化するのだ。たとえば、これまで銀座で一冊だけの本を売る小さな本屋「森岡書店」の立ち上げを手伝ったり、日本経済新聞社やFM局J-WAVEの未来ビジョンの言語化を手伝ったり、ロゴマークをつくったりしてきた。

 どのようなプロジェクトでも、大なり小なり「数年先の未来の世界」を想像するプロセスがついてくる。そこで思い返すのが、多くの短編・長編小説で未来の世界を描いてきたアメリカのSF作家、ウィリアム・ギブスンの言葉だ。「未来はすでにここにある。ただ均等に分配されていないだけだ」──。

 わたしたちは未来を見通そうとするとき、綿密な調査に頼ったり、直感をあてにしたりする。でもギブスンは、ただ、多くの人が見過ごしている「いま・ここ」にまなざしを向けることを説く。日常生活の中で「あたりまえ」に映り等閑視しがちなことからも、未来の兆しを見て取ることができる。このとき重要なのは、あらたに見る「対象」を変えることではなく、むしろ同じ対象を「違う方法で」見つめるということだろう。

ディストピア化する現代社会

 そもそも「未来」といったとき、わたしたちはどれだけ前向きな風景を想像できるのだろうか。ここ数年は、悲観的にならざるを得ない出来事は、枚挙にいとまがない。気候変動やパンデミック、各国の保守化・右傾化と内外の紛争、多様性・マイノリティに関わる人権や制度の課題……。まさかそんなことが実際に起るのか、と思える意外なニュースに、驚かされることも少なくない。わたしたちは、もしかすると創作の世界にしかあり得ないと思っていたディストピアに生きているんじゃないだろうか──。

 このような「あり得ない」と思えるような種々の事象を、ある小説家が予言するように作品の中に描いてきた。カナダの作家、マーガレット・アトウッドだ。1960年代末に女性の摂食障害を取り上げデビューして以来、解離性同一症、学校でのいじめとトラウマ、致死的感染症のパンデミックなど、現在は広く社会に認識されている事象を、年単位で先取りしながら、作品に描いたのだ。

アトウッドが「違う方法で」見つめた世界

 文芸評論集『文学は予言する』で、著者の翻訳家・鴻巣友季子氏は、アトウッドと現実の事象の連関についてこのように書いている。

 これらの現象[中略]は、長ければ数十年の時を経て、現実化した。いや、アトウッドなら「現実化」とは言わず「顕現」または「表面化」と呼ぶはずだ。彼女は「自分は予言者ではない。歴史上にも現状にも起きたことのない事柄は一度も書いたことがない」と明言している。人々が目の前にあるのに気づかないことを、時空間をずらして浮き彫りにするのが、ディストピア小説やスペキュレイティヴ・フィクション(思索小説)なのだ、と。 (p.46)

 アトウッドは未来を予言したのではない。いま・ここの現実のなかに、未来の現実に顕在化し得る、ディストピアの萌芽を見てとっていただけだ。普段気づかないことは、多くの人にとって存在しないことに近しい。でも、「時空間をずらして」描かれた小説を通して、普段気づかないことに「出会い直す」ことができる。小説は、ときに未来を、ときに歴史を描く。この世界を違う方法で見る姿勢について、鴻巣氏はこうも述べている。

 未来小説とは未来のことを書いたものではない。歴史小説とは過去のことを書いたものではない。どちらも、今ここにあるもの、ありながらよく見えていないものを、時空間や枠組みをずらすことで、よく見えるように描き出した「現在小説」なのである。(p. 29)

 小説家は、いま・ここと異なる世界を描き出す。でもそれは、あくまで現実の写し絵だ。

展覧会としての『文学は予言する』

 『文学は予言する』は上述した「ディストピア」の他に「ウーマンフッド」と「他者」の全三章からなる。数々の文学作品に描かれる社会的なテーマを、ここ数年の現実の社会情勢と照らし合わせながら論じていて、わたしは大量の付箋を貼りながら読んだ。テクストと間テクストの深い森を歩くためのガイドブックのようだ。

 いや、もし本が美術作品だったなら、『文学は予言する』はひとつの展覧会のようなものかもしれない。全三部からなる展覧会を著者はキュレーションし、選びぬいた各展示作品について、時事問題や社会的背景とともに繙く詳細なキャプションと批評を認(したた)めたのだ。

 「ウーマンフッド」と「他者」の章からも多くの知的刺激と視点の更新を受け取った。わたしの不知の自覚を促すもので、これらについても詳述したいところだが、ここでは第一章「ディストピア」という架空の展覧会に、わたしもデザイナーの目線で何らかの作品をキュレーションするならば──という、自分勝手な妄想を広げてみたい。というのも、デザインの業界は、スペキュレーション(思弁)というキーワードで、ある種の文学と接続しうるからだ。

同性間の子供との家族写真──または思弁的なデザイン

 スペキュラティブ・デザインという領域がある。

 スペキュラティブ・デザインとは、問題解決ではなく問題提起に取り組むデザインの態度/領域のことで、越境的・批判的なまなざしを持つという特徴がある。このジャンルにおける日本の代表的なアーティスト/デザイナーに長谷川愛氏がいる。同氏の作品をひとつ紹介しよう。

 近年、同性婚が法的に認められる国が増えている。日本でも2015年に渋谷区と世田谷区の自治体で、同性のパートナーシップを「結婚に相当する関係」とする証明書の発行を開始した。わたしたちの家族観も、いままさに更新のさなかにある。そんななか、科学的には、iPS細胞技術によって同性二人の間に子供が生まれる可能性もゼロではない──。この可能性に触れた長谷川氏は、《(Im)possible Baby/不可能な子供》という作品を制作した。実在する女性同士のカップルの遺伝情報を用い、この二人が持ちうる子供の姿や性格を予測し、架空の「家族写真」を視覚化したのだ。いまの社会では想像し難い同性カップルの子供というテーマに、わたしたちはどう近づくことができるのか。長谷川氏は、論文や論考などの方法で「科学的・論理的に語る」のではなく、家族写真のかたちで「生活者の視点で観る」ことを試みた。ここでは、現実社会の「あたりまえ」を異化し、「あたりまえ」がすでに変わった生活を視覚化している。まさにスペキュレイティブ・フィクション(思弁的小説)と呼ばれる文学領域と接続するアプローチだと言えるだろう。

 長谷川氏の取り組みは、作品単体で完結せず、わたしたちをさらなる思索に誘い出す。作品制作を通して、このカップルとの対話を行ったり、生命倫理を扱う研究者との対話や法学者へのインタビューを行ったりしている(長谷川氏の著書『20XX年の革命家になるには──スペキュラティヴ・デザインの授業』に詳しい)。表現に終始するのではなく、社会的な議論への補助線を引くところまで踏み出している。これを見た人は、社会通念や生命倫理について、思わず議論を始めたくなるのではないか。実際に、長谷川氏が美術館やギャラリーで展示を行う際は、しばしば順路の最後に来場者が自らの意見を付箋に書いて張り出すことのできる壁が配置されている。

 長谷川氏は、作品と活動を通して、家族や性に関するいまの社会の常識について、オルタナティブを提示する。スペキュラティブ・デザインは、いまの現実社会とは異なる可能性を探索することで、人々の感情をプロトタイピング(試作)する取り組みでもある(ここでの「デザイン」は、大量生産や大量消費を背景にしたビジネスのための営為というよりも、表現活動を通した問題提起として捉えたほうが良いだろう)。スペキュレイティブ・フィクションやディストピア文学がもたらす波及効果に通じるものがあるように思う。

世界を観るまなざし

 わたしはしばしば江戸時代の思想家で医者であった三浦梅園の言葉を思い返す。「枯れ木に花が咲くことを驚くのではなく、生木に花が咲くことを驚け」。誰もが奇跡と認める枯れ木の復活に注目するのではなく、普通の生木が、毎年春にしっかりと花を咲かす、一見ありふれたことに着目すること。そこにセンス・オブ・ワンダーを感じ取ること。

 文学であれ、デザインであれ、思弁的な作品は、わたしたちが世界を観るまなざしを新たにする。世界は一切変わっていなくとも、観る側のまなざしが変わることで、風景は様変わりするのだ。『文学は予言する』は、文学作品と現実社会の接合部分を語ることによって、わたしたちのまなざしを刷新する。

鴻巣友季子『文学は予言する』(新潮選書)

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