左から小泉悠氏、細谷雄一氏、田所昌幸氏 (C)新潮社

『国際政治』(1966年刊)、『世界地図の中で考える』(1968年刊)など、国際政治学者・高坂正堯(1934~1996年)の本は、刊行から半世紀が過ぎても、いまだに版を重ね、読まれ続けている本が多い。

 そして、高坂が逝去してから27年となる今年、新たな講演録『歴史としての二十世紀』(新潮選書)が刊行され、話題を集めている。

 国際情勢は目まぐるしく変化を続けているにもかかわらず、なぜ高坂の本は読まれ続けるのか――国際政治と安全保障を研究している田所昌幸(国際大学特任教授)、細谷雄一(慶應義塾大学教授)、小泉悠(東京大学専任講師)の3氏が鼎談した。

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古さを感じさせない秘訣

細谷 慶應義塾大学の細谷ゼミでは、毎年、国際政治に関する本をたくさん読みます。それで学年の最後に「面白かった本」のアンケートを取ると、必ず高坂先生の『国際政治』が1位になる。正確に言えば、私が書いた『国際秩序』が1位なんですけど、それは明らかに学生たちの「忖度」なので(笑)、実質的に高坂先生の本が1位なのは間違いありません。

 『国際政治』が刊行されたのは50年以上も前のことです。ゼミ生たちが生まれる遥か前に書かれた本にもかかわらず、アンケートを見ても「古くさい」などの感想が見当たらない。この古さをまったく感じさせない高坂本の魅力は、どこから来ているのでしょうか?

田所 じつはちょうど昨年、『国際政治』の英訳プロジェクトがあって、何十年かぶりに『国際政治』を読み返して、気がついたことがあります。序章の扉にあるエピグラフがオランダの歴史家ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の一節なのです。

 「真の文化は何らかの遊戯内容を持たずには、存続してゆくことができない」云々という箇所で、要するに、文明には「遊びの精神」が必要で、それは自制と克己を前提とするものであり、自分たちは完全ではない、人間の理性には限界があるという自覚を持って振る舞わなくてはならないという話です。

 高坂先生の本も、常に「しょせん先のことはわからない」「人間は間違える」という前提で、その上で少しでも望ましい国際政治のあり方を考えるという姿勢で議論が進みます。そういう知的謙虚さが、「正解」があることを前提とする偏差値教育の中で育った学生たちの心に新鮮に響くのかもしれません。

小泉 一方で、そのような知的謙虚さを受け付けない人もいます。3年ほど前に、データサイエンスを標榜する国際政治学者が戦争を論じる新書(多湖淳『戦争とは何か―国際政治学の挑戦』中公新書)を出したのですが、その中で「高坂正堯の議論なんて、『風が吹けば桶屋が儲かる』式のいい加減な議論に過ぎないから、この本ではちゃんと統計データを使って実証的に戦争を論じるんだ」みたいなことが書いてあって、随分と無邪気な「統計至上主義」だなと思ったことがあります。

 もちろん、アメリカ流のポリティカル・サイエンスをやる研究者も必要だと思いますが、だからと言ってオーソドックスな歴史学を否定する必要はない。自分たちの研究だけが正しいと言うのは、知的謙虚さとは正反対の態度だと思わざるをえません。

「科学」だけで人間の営みを理解できるか

田所 たしかにその通りだけど、でも正直に言うと、じつは私も若いころに高坂先生の古典重視の研究に物足りなさを覚えた時期があった。社会科学も学問である以上もっと厳格な分析手続きが必要なんじゃないかと思って、それで私は政治経済学の道に進んだんです。物理学的なモデルを使ったりする経済学に憧れを持っていたんですね。

 でも高坂先生は、私がそっちの方向に突き進んでも、ひと言も「やめろ」とか「俺みたいにやれ」とは言わず、自分が面白いと思ったときには、「おもろい」と言ってくれましたね。私が一人で勝手に反抗しているような形だったわけですが、そのうちだんだん私自身がアホらしくなってきた。

 というのも、統計であれ数理モデルであれ、相当強引な知的前提をいろいろ付けないと成立しない。そういう知的技術の精緻さを突き詰めても、自分の内発的な知的欲求には応えてくれそうもないと思ったんですね。人生1回しかないのだから、本当に知りたいこと、本当に面白いと感じることをやろうと思って、高坂流に回帰して再び思想とか歴史の本を読むようになりました。

細谷 やっぱり、どうしても日本人はアメリカの学問の流行に弱いところがありますね。その点、高坂先生が大好きだったイギリスには、独特な「知的免疫」のようなものがある。1930年代にイギリスにも共産主義が入って来て、エリック・ホブズボームのような共産主義者も出ましたが、それでもその浸透はかなり限定的で、学問を支配する趨勢にはなりませんでした。

 それと同様に、現在はイギリスのどこの大学でも、アメリカ仕込みの統計学的な政治学をやる人はいるんだけど、決して主流にはならない。今でも思想や歴史からアプローチする政治学がしっかりと根をはっている。統計や、科学的な方法論だけでは、政治という人間臭い営みは捉えきれないと思っている人が多いんでしょうね。高坂先生も、またイギリス人も、人間の知性の限界とか、人間の不可知な領域に対する敬意がある点で、共通するような気がします。

 ちなみに高坂先生は『古典外交の成熟と崩壊』という本の中で、先ほども話に出た「遊び」の精神の重要性を説く一方で、人間の「事業欲」に対して警鐘を鳴らしています。「事業欲」というのは、とにかく仕事をしないと気が済まない、目に見える結果をすぐに出したがるという習性です。学問的方法論を洗練させることによって人間活動のすべてを解明しようとするかのような姿勢も、一種の事業欲かもしれません。その行き過ぎた「事業欲」は、いわばナチスのホロコーストにも帰結したといえるかもしれない。ドイツの思想家テオドール・アドルノは、「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と述べて、戦前ドイツの極端な科学信仰、効率主義が、皮肉にもホロコーストという科学的で効率的な殺戮に帰結したことを、批判的に論じました。自らの足元を見つめ、その知的活動に懐疑の姿勢を示すことも重要です。そのためには、自らを客観視し、相対化するような、「遊び」の精神が重要なのかもしれません。

人間の愚かさへの眼差し

小泉 これまでのお二人の話を伺っていて、少し突飛かもしれませんが、高坂先生の本は、どこか「落語」と似たようなところがあるんじゃないかと思い当たりました。私は親父の影響で落語好きになりまして、じつはうちの奥さんもモスクワ大学で落語を研究していたんですけど、立川談志は「落語とは人間の業の肯定である」と言っています。要するに、落語が描いているのは、面白くも愚かな人間であって、愚かであることは別に責められることではない、そういう人間を肯定するのが落語なんだ、というわけです。

 高坂先生の本も、人間が賢く合理的な選択ができる存在だとは考えず、むしろ愚かで間違ったことばかりしてしまう生き物だと認識した上で、そんな人間をどこか温かく肯定しているようなところがある。まさに落語と同じで、もしかしたらそれが高坂本が読まれ続ける秘訣かもしれません。

田所 たしかに『歴史としての二十世紀』を読んでいても、戦争という愚かな行為をしてしまう人間を、一方的に断罪して突き放すような書き方はしていませんね。逆に平和な時代が続くと善良だけど平凡な人間ばかりになってしまうと言って、第一次大戦開戦時のエドワード・グレイ英外相を小市民的だと批判している。その一方で、数々の戦火をくぐり抜けた冷酷無比なスターリンを「立派な政治家」なんて書く。もちろん、だから戦争した方がいいという話ではなく、平和には平和の問題があると言っているだけですが、そういう二面性を同時に語ろうとするのが高坂流なんです。

小泉 何事にも正と負の両面があるわけですが、その両方をバランスよくミックスして語るのはすごく難しい。アメリカ空軍出身の国際政治学者ジョン・ミアシャイマーのような、いわゆるオフェンシブ・リアリスト(攻撃的現実主義者)は、人間性の負の側面だけを取り出して議論するから、極端な結論になる。一方で人間性の正の部分だけ見ると、お花畑的なフワフワした議論になってしまう。高坂先生はその辺りのバランス、いわゆる大局観が卓越していると感じます。

「囲碁」と大局観

田所 それとどこまで関係しているか分かりませんが、高坂先生は囲碁が非常にお好きで、相当強かったらしい。囲碁というものは、いくら細かい局面で勝利を重ねてもダメで、全体を俯瞰しながら打たないと勝てないそうです。それで、あるプロ棋士が高坂先生の碁を評して、「彼は大局を読むのが非常に上手い」と言うんですね。

小泉 なるほど、たしかにそれは高坂先生の学問に対する姿勢と重なるような気がします。軍事専門家は「高坂は軍事の話をするくせに、兵器のことを全く知らない」とか批判するんですが、おそらく高坂先生はF-104Gの細かいスペックを覚えたところで仕方がないと考えていたと思うんですよ。

 囲碁で細かい局面に執着してはいけないのと同様に、学問の世界でも蛸壺に入り込むと全体が見えなくなる。高坂先生には、あえて深いところまで入って行かないように自己を律していたように見えます。むしろ浅い穴をたくさん掘って、それを全体的に俯瞰して、ものすごい大きな絵図を描く。それが人によっては「風が吹けば桶屋が儲かる」式の議論に見えるのかしれませんが、あのスケールでビッグ・ピクチャーを描ける人はそうはいない。

細谷 『歴史としての二十世紀』でも、軍事について詳しく語る一方で、じつは軍事力に出来ることは限定的なんだと言って、経済力とか技術力とか、さらには文化や国民性についてまで論じています。だから、それぞれの分野の専門家から見れば、細かいところで間違いを指摘するのは簡単なことだと思うんです。

 しかし、そもそも20世紀というのは、アメリカが台頭して、ロシアが共産国家になって、大恐慌があって、二度の世界大戦があって、冷戦があって……という、とてつもない時代でした。それを1990年の時点で俯瞰して、30年後の世界を生きる私たちの目から見ても古さを感じさせない形で、見事に大局を掴んでビッグ・ピクチャーを描いてしまう――こんなことをできる日本人は高坂先生の他にいないでしょう。本書が、他の高坂作品と同様、長く読み継がれるロングセラーになることを確信しています。

※この鼎談は、高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)刊行を機に行われたものです。

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◎高坂正堯(こうさか・まさたか)

1934~1996年。京都市生まれ。京都大学法学部卒業。1963年、「中央公論」に掲載された「現実主義者の平和論」で鮮烈な論壇デビューを飾る。1971年、京都大学教授に就任。『古典外交の成熟と崩壊』で吉野作造賞受賞。佐藤栄作内閣以降は外交ブレーンとしても活躍。新潮選書から刊行した『世界史の中から考える』『現代史の中で考える』『文明が衰亡するとき』『世界地図の中で考える』がいずれもベストセラーとなる。

高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)

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