≪1992年北方領土交渉≫挫折を招いた「米国依存」――外交文書解禁で新事実
2024年1月16日
年末恒例の外務省の外交文書公開が2023年12月20日に行われ、今回は1992年を中心に、宮澤喜一内閣時代の外交文書約6500ページが解禁された。
文書公開は1万ページを超えることもあるが、今回はやや少なめで、日米首脳交渉や天皇訪中をめぐる日中関係が中心だった。筆者が関心のあったソ連崩壊直後の日露関係は、一切公開されなかった。組織防衛に走る外務省は、自らに不都合な文書を解禁しなかったかにみえる。
しかし、日米・日中間のやりとりで、北方領土交渉をめぐる意外な事実も判明した。そこから、日本外交の致命的欠陥が見えてくる。
北方領土交渉の記録は非開示
戦後79年を経て振り返ると、北方領土問題を日本に有利な形で解決する千載一遇のチャンスは、1992年の一時期だけだった。新生ロシアのボリス・エリツィン大統領(以下、肩書は当時)はスターリン外交を否定し、「北方領土問題を必ず解決する」と表明していた。92年の日本の国内総生産(GDP)は世界の16%を占め、IMF(国際通貨基金)の統計では、ロシアの55倍。筆者は当時、記者としてモスクワにいたが、ロシア社会には、最先端の先進国・日本の援助を受けられるなら、領土割譲は仕方がないという雰囲気さえあった。
記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。