1月27日、事前抽選を突破した読者9名が日産自動車座間事業所(神奈川県座間市)に集合した。1965年、ダットサントラックの組立工場として建設された座間工場は、その後、大衆車として爆発的にヒットしたサニーのメイン工場に。95年に車両組立工場としては幕を閉じたが、現在もバッテリーの生産ラインや試作・教育用のラインが稼働中だ。
今回のお目当ては、敷地内にある「日産ヘリテージコレクション」。日産の歴代の名車を保管しているガレージだ。ガレージという位置づけなのは、法律上の博物館ではないため。一般公開は不定期で公式サイト上に予約枠が発表されるが、日産ファンの熱い注目を集めるイベントのため、参加者の一人は「先着順で、すぐに枠が埋まってしまう。今日は来られてうれしい」と語っていた。
今回、ガイド役を務めてくれたのは、現役時代は実験部に勤務していた荒川幸隆氏である。もともと自社の名車を年に1台フルレストアしていたボランティアサークル「日産名車再生クラブ」が日産テクニカルセンター(神奈川県厚木市)にあり、荒川氏はそのメンバーだった。さらに、2013年の日産80周年記念を機にオフィシャルな活動も担当。本格的に予算がついて計画的にレストアを行うようになり、座間事業所での一般公開が始まった。
現在、コレクションは500台を超える。歴史を考慮し、市場に出たものを計画的に購入するが、オーナーからの寄贈も多い。「日産ヘリテージコレクション」で公開されているのは約280台。どれも手入れが行き届いて見た目はピカピカだが、ここは博物館ではなくガレージ。「公開中のクルマのうち約7割は、2~3日整備したら自走できる状態」(荒川氏)というところに、元レストアクラブメンバーらしいこだわりが見える。
時代を象徴するヘリテージ・カーたち
見学会は、日産の歴史を解説したビデオ視聴からスタート。大まかな流れをつかんだ後、荒川氏のガイドで、それぞれの時代を彩ったヘリテージ・カーを古い順から見学していった。もっとも古いコレクションは、ダットサン12型フェートン(1933年)。
当時はまだ手作りだったが、隣に並ぶダットサン14型トラック(1935年)から大量生産に入っていく。
「2022年に『日産は、他がやらぬことをやる。先進技術で毎日にワクワクを。』というテレビCMを流しました。実はあれ、やや言葉足らずなんです。創業社長の鮎川義介は、『資源がない日本が栄えるには機械加工しかない。自動車の生産をするべきだ』と役所や財閥にかけあったものの却下。そこで私財を投げうって1935年に横浜工場をつくりました。国内に自動車が1万台なかった時代に、横浜工場は年産1万台。まわりには理解されませんでしたが、鮎川は他に誰もやらなくても、どうしても必要だからと日本初の自動車量産工場をつくったのです」(荒川氏)
鮎川氏の決断以降、日産は時代を先取り・象徴する自動車を次々に送り出していく。たとえばのちに日産と合併するプリンス自動車(当時の社名は東京電気自動車)が開発した、たま電気自動車(1947年)。戦争で焼け野原になって各種工場が操業停止になる一方、山間部のダムは被害を免れたため、終戦直後は電気が余っていた。政府は電気自動車(EV)開発を推奨して、当時は新興メーカーが次々にEVをつくった。たま電気自動車もその一つだった。
プリンス・セダン(1954年) は、現在の上皇陛下が皇太子殿下時代に愛用。トリノ国際自動車ショーに出品したプリンス・スカイラインスポーツ クーペ(1960年)は、コレクションの中でもっとも高価な一台と言われ、オークションに出れば数億円の値がつくのではないかという。
参加者の関心が高かったのは、いまでも愛好家が多いスカイラインとフェアレディだ。ケンとメリーが日本全国を旅するCMで一世を風靡した4代目スカイラインC110型(1972年)、通称“ケンメリ”は、5年間で66万台を売り上げる人気に。キャンペーンでつくったTシャツまで31万枚以上売れたというから驚きだ。公開されている一台一台に何かしらこうしたエピソードがあり、参加者は荒川氏のガイドに熱心に聞き入っていた。
時代を先取りしすぎた(?)名車も……
コレクションされているのは商業的に成功した自動車ばかりではない。たとえば初代プレーリー(1982年)は、販売約6年間で新車登録台数は約5万台にとどまっている。それでもコレクションに欠かせない一台となっているのは、現在人気のミニバンの元祖とでもいうべき自動車だったからだ。
「1970年代初めに、FF(前輪駆動)車をベースにしたらフロアが真っ平らになり、シートレイアウトを自由にできてユーティリティの高い自動車をつくれると提案したエンジニアがいました。当時の重役は遊び慣れてないから良さがわからず却下したそうですが、10年越しで実現したのが、フルフラット化や回転対座もできる8人乗り3列シートを取り入れた初代プレーリーでした。空間を自由に使えるだけでなく、世界初のセンターピラーレス・フルオープン構造で、乗り降りもしやすい。まさにミニバンの元祖ですが、当時はお客様も遊び慣れていなかったようで、時代を先取りしすぎました(笑)」(荒川氏)
現在日産とアライアンスを組んでいるルノーが、ミニバンのエスパスを販売してヒットさせたのが1984年。日産はわずかながら早すぎたようだが、創業以来の精神である「他がやらぬことをやる」に果敢に挑戦した結果であり、むしろ面目躍如といったところだろう。
一方、遊び慣れた消費者の声を直接聞いて開発し、商業的にも成功を収めたのが、初代エクストレイル(2000年)だ。一般的に自動車の新モデルは、販売店からの要望や前モデルの市場での反響をもとにコンセプトが決められる。それに対して、初代エクストレイルの開発チームは自ら海や山に出かけて、サーファーやスキーヤーに直接声をかけてヒアリングした。これも「他がやらぬことをやる」の一つだ。
「初代エクストレイルは、サイドシル(ドアの下のボディ部分)をドアが覆う構造になっています。従来の構造だと、泥道を走ったときにサイドシルが汚れて、乗り降りで服が汚れるおそれがあります。また、着替えるときに邪魔になるハンドルは90度上にあげられるようにしました。こうした発想は、開発者自身が現場に出て若いお客様たちの声を聞かなければ生まれなかったでしょう」(荒川氏)
見学会は約1時間で終了。コレクションの280台は、時代こそ異なるものの、その時代の「他がやらぬこと」に取り組んでいるものが多い。荒川氏のガイドを聞くうちに、先進的なものに挑戦する精神こそが日産のヘリテージだと実感した。
現在、「日産ヘリテージコレクション」で公開されている自動車は2010年代のものまでだ。ただ、日産はその後も挑戦を続けている。今後、このコレクションにどのような自動車が加わるのか。今から楽しみだ。
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