能登での炊き出しの様子(筆者撮影)

 石川県・能登地方の被災地で、在日ミャンマー人らによる支援活動が続いている。国軍の空爆で故郷を失ったレーさんは、「育った町も家もなくなってしまった悲しみが共感できる」と語った。被災地支援を行うNPO法人「森の遊学舎」の大西琢也・代表理事によれば、慢性的にボランティア不足が深刻な状況。災害ボランティア経験の有無にかかわらず、また、日帰りでも可能なことはあるという。

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 筆者が訪ねた4月28日、石川県能登町では、在日ミャンマー人や日本の学生らが協力して炊き出しを行い、1月の能登半島地震で被災した住民らにミャンマー料理を振る舞う姿が見られた。

 炊き出しでは配膳開始の30分前から、高齢者を中心とする現地住民30人以上が並び、配り始めた後は、用意していた約100食分が瞬く間になくなってしまった。

 ミャンマーの春雨スープ「チャーザンヒンガー」を食べた住民の男性(37)は、「美味しいですね。外国の方がわざわざここまで来てくれてうれしいです」と顔をほころばせる。

 別の住民女性(83)も、「3カ月間避難所にいて、最近やっと自宅に戻れた。炊き出しは久しぶりだったので、助かります」と話すなど、住民らの笑顔が垣間見られた。

「ミャンマー避難民の姿と重なる」

「自分たちが大変な時に助けてくれた日本人に、恩返ししたい気持ちで、いてもたってもいられなくなりました」

 在日20年以上で、二児の母であるミャンマー人の大槻美咲さんは、今回の炊き出しを企画した理由をそう話す。地震の様子をテレビで見てから、能登でのボランティアを切望していたという。

「ミャンマーでは軍事クーデターが起きて、国軍の弾圧により多くの人が避難生活を送っています。日本人は避難民支援のための募金活動に協力してくれたり、難民を受け入れてくれたり、本当に感謝しています」(大槻さん)

 人権団体によると、2021年2月のクーデターで実権を握ったミャンマー国軍の攻撃や弾圧によって、6月6日時点で5200人以上が死亡した。さらにいまだ2万人以上の市民が拘束されている状況にある。一部の地域では軍による空爆が続き、少数民族武装勢力との戦闘も激化。国内避難民は300万人を超えている。

「能登の避難所で冷たい床の上に座った高齢者や妊婦の姿が、ミャンマーの避難民の姿と重なりました。私の母と妹も、ミャンマーでずっと避難生活を送っています。できることは少ないですが、能登の被災者の方に少しでも笑顔になってほしいと思いました」(大槻さん)

 炊き出しの準備には、大きな苦労もあった。ボランティアを受け入れる自治体との調整をはじめ、炊き出しの人員や車、ドライバーの確保、調理の段取り調整や食材、調理器具の調達までを、わずか3日間で行った。

 大槻さんの呼び掛けで、在日ミャンマー人を中心とする約20人が集まったが、苦労したのは、東京から能登まで500キロ以上、約8時間に及ぶ長距離運転が可能なドライバーの確保だった。

 在日ミャンマー人のネットワークを通じ、なんとか長距離運転に慣れたドライバーを数名確保できたものの、道中で迷って移動時間が予定を大きくオーバーするなどのトラブルもあった。一方で大槻さんは、「今回の反省を生かし、また近いうちにボランティアをやりたい」と意気込む。

お茶の葉サラダをつくるミャンマー人(筆者撮影)

片道13時間かけて支援に

 能登地震の発生後、大槻さんのような在日ミャンマー人によるボランティアや募金活動が続いている。

 在日20年以上で、ケアワーカーとして働くミントンさん(41)は、東京から既に3回、在日ミャンマー人の仲間たちとともに能登でのボランティアに参加。1回目と3回目は七尾市で損壊した住宅の片付けの手伝い、2回目は珠洲市で炊き出しを行った。

 ミントンさんは「ミャンマーでクーデターが起きてから、避難民支援のための募金活動をしており、協力してくれる人がたくさんいました。日本人が困っている時は、少しでも恩返ししたいという気持ちです」と話す。

「3月に珠洲市に行ったときは、道が狭く一方通行だったこともあり、東京から車で13時間かかりました。でも私たちの大変さは一時的。現地の人の方がもっと大変だから、そうした苦労も我慢できます」(ミントンさん)

 被災地への募金活動も進められている。東京・日暮里のミャンマー料理店「Spring Revolution Restaurant(SRR)」は、能登地震の発生後すぐに被災地へのチャリティービュッフェを実施。売上の約7万円を被災地に寄付した。

 オーナーのレーさんもまた、大槻さんやミントンさんと同じように、「日本人への恩返し」という言葉を口にする。生まれ育ったミャンマー北西部ザガイン管区の町は、昨年11月に国軍による空爆を受け、町ごとなくなってしまった。そうした母国の現状も、能登の被災地の様子と重なるという。

「町が空爆される少し前に、なんとか母親を日本に連れてくることができました。しかし私の育った町も家も、もうなくなってしまいました。戻ることは難しく、どれだけの被害が出たのか、確認することすら難しいのです。そうした悲しみが共感できるので、能登の人たちを支援したいと思いました」(レーさん)

被災住宅の片付けを手伝うミントンさんら(本人提供)

「慢性的にボランティア不足」

 一方、能登地方では地震発生から5カ月が経過しているものの、いまだに瓦礫の撤去が進んでいない地域も多く、過去の地震被災地と比べたボランティア不足が懸念されている。

 4月の炊き出し会場となった観光・地域交流センター「コンセールのと」の周辺では、地面のコンクリートが隆起したままになっている場所や、半壊したままの住宅などが残り、地震の被害をいまだに痛々しく物語っていた。一部の地域では、依然として水道が使えない状況が続いていた。

 被災地支援を行っている岐阜県郡上市のNPO法人「森の遊学舎」の大西琢也・代表理事(防災士)は、「慢性的にボランティア不足が深刻な状況。人々の関心も、他の大震災と比較して低いように感じる」と指摘する。

「近隣県からなら、日帰りでも可能なことはあります。遠くからなら1泊でも2泊でも、ぜひ来てほしいです。災害ボランティア経験の有無にかかわらず、支援物資の仕分けや炊き出し、賄い、簡単な事務作業のほか、被災された家の内外の掃除、ブロック塀の撤去や墓石を起こすといった作業などもあります」(大西さん)

 大西さんによると、現地では技能実習生が被災する事例もあり、そうした外国人を支援する民間ボランティア団体の参画も進んでいるという。能登の被災地ではさまざまな支援が依然として必要とされる中、日本人、外国人を問わないボランティアの助けが求められている。

損壊したままの住宅(筆者撮影)

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