クルスク侵攻作戦は、停戦の機運を遠のかせ、戦争を継続させる効果を持った[ウクライナ軍による越境攻撃で破壊された戦車=2024年8月16日、ロシア西部クルスク州スジャ郊外](C)AFP=時事

 8月6日、ウクライナ軍が、ロシア領クルスク州に侵入した。よく準備された奇襲作戦で、国境のロシアの防衛線を突破し、国境から10キロほどの地点にある人口6000人の町スジャを占拠した。これに対してロシア軍は、人口約44万人の州都クルスク及びクルスク原子力発電所を防衛するための塹壕を形成したうえで、ウクライナ軍の北上を阻止した。そこでウクライナ軍は、国境線に沿うように東西に拡散して軍事行動を展開し、小規模の集落を支配下に置いていった。
 この軍事作戦が何を目指して行われているのか、一見して判然としないところがあるため、多くの議論がなされた。軍事的合理性を訴える者はほとんどいなかった。代わりに、低下していたウクライナ側の士気を上げること、及びロシア側にショックを与えることといった心理的効果を論じる者が多かったようだ。
 確かに、防御が弱かったロシア領に奇襲攻撃を仕掛けて成果を出し、ウクライナ側の士気は上がったかもしれない。ロシア側もショックはあっただろう。ただしそれらは限定的かつ短期的なものだったと言わざるを得ない。
 軍事専門家の方々が、ウクライナが押され気味だった東部戦線からロシア軍の部隊をクルスク方面へ転用させることに意味がある、さらにはウクライナ側も占領地を確保して将来の停戦交渉の際の交換条件にすることを狙える、といった点を主張された。
 だが私には、東部戦線からロシア軍をクルスク方面に転用させることをウクライナ側が企図することに、何か戦略的合理性があったのかは、よくわからない。首都キーウから600キロ以上離れた東部戦線から、キーウまで400キロのクルスクにロシア軍を引き寄せて新しい戦線を作り出すことに、どのような意味があるのか。明確な軍事的利益が不明だとすれば、戦争の継続という効果を狙うことそのものが「目的」であったと考え、「合理性」をその「目的」にそって考えるしかなくなる。
 交渉材料になる軍事的成果があがっているのかどうかも、不明である。ロシアは、クルスク州内の原子力発電所や州都クルスクなどの重要拠点は守っている。ウクライナ軍が占拠したスジャに、欧州向け天然ガス輸出量の半分を占めるパイプラインの測定所があるのは、重要な事実だ。だが、それがウクライナにとって何か有利な材料になる要素を持っているのかは、不明である。折しもノルドストリームを爆破したのがウクライナ人であったことが判明するスキャンダルが話題になっている最中である。ウクライナが不用意な行動に出れば、ウクライナへの欧州人の信任がさらに低下するだけだ。もっともそもそもパイプラインはスジャだけにあるわけではない。他のあらゆる天然資源の問題と同じように、一つの部分的施設を抑えても、迂回策の模索を促進するだけではあるだろう。
 ウクライナ軍が占拠したと主張したのは、ほとんどの住民が避難した後の、もともと過疎地帯であるスジャ及び国境付近の数十の集落くらいの地域であった。その面積は、ロシア占領地域と比較にならないくらいに小さいうえに、占領地域のほとんどには社会生活が維持される実態は消えていた。行政権限を掌握したと言えるような実態は生まれえない。これが将来の停戦交渉の際の取引材料になりえるかと言えば、ただ極小的な意味においてのみであっただろう。このような国境付近の過疎地帯の限定的な占拠に対して、ロシア政府が停戦交渉で解決を図るように動機づけられるはずはなかった。実際のところ、ウラジーミル・プーチン露大統領は、クルスク攻勢の初期の段階で、一切の交渉の可能性を拒絶する、と宣言した。

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