首里城の廃材で作るシーサーには沖縄の魂が宿る
琉球時代より守護神として伝わってきたシーサー(以下、写真はすべて宮城氏提供)
宮城光男 沖縄シーサー協会会長。1976年那覇市生まれ。伝統をベースにしながらも、既成概念にとらわれない自由な発想で創作を続ける。シーサーをアート作品と再定義し、フランスやカナダ等で個展を開催。2010年サンボマスター『できっこないを やらなくちゃ』シングルCDイラスト制作等、実績多数。
先祖はスフィンクスで親戚はマーライオン!?
徳永 まずはシーサーのルーツについて教えて下さい。
宮城 シーサーは世界中の獅子像文化に連なります。その源流はエジプトのスフィンクスに端を発し、シルクロードを通じて中国、東南アジア、そして沖縄へと伝播したものと考えられています。中国の石獅子や新しいものではシンガポールのマーライオンのように、各地の風土や宗教観と融合しながら、地域固有の造形として定着していきました。
ただ、シーサーについては文献も多くは残っておらず、18世紀に琉球王国の正史として編纂された『球陽』によれば、沖縄本島南部の富盛にある石造の獅子像が最古のシーサーとされます。この地域は古来より自然災害が多発しており、時の琉球王朝がこれを鎮めるために風水に基づいて石獅子を建立したと伝えられています。
徳永 沖縄の家々の屋根に置かれ始めたのはもっと後の時代でしょうか。
宮城 琉球王国時代、瓦屋根は王族および士族にのみ許された建築様式で、一般庶民が赤瓦の家に住めるようになるのは明治期以降です。当時の屋根職人は、瓦を固定するために珊瑚を原料とする琉球漆喰を用いていましたが、余剰の漆喰や破損した瓦を有効活用して、シーサーを作って屋根の上に置きました。
興味深いのが、シーサーの造形が職人の巧拙の基準になったようなのです。実際に、台風通過後に屋根が飛んだ家と無傷の家があったと話題となり、「あの壊れなかった家のシーサーを作った職人は誰か」と、特定の職人に仕事の依頼が集中することもありました。沖縄本島南部の職人が作ったシーサーが石垣島や竹富島にも存在するので、腕の良い職人は離島にも派遣されたことがわかっています。
徳永 シーサーには職人のランク付けの意味もあったのですね。
宮城 鉄筋コンクリート住宅の普及により、シーサーの需要は一時期には著しく減少しました。ところが本土復帰後に沖縄は観光地としての整備が進み、次第に観光土産として注目されるようになります。もっとも私の立場からすれば、瓦屋根の普及期に花開いた、屋根上の立体シーサーこそが、地域固有の建築文化と深く結びついた貴重な遺産であると考えています。
シーサーは「魔除け」ではない
徳永 宮城さんご自身とシーサーとの出会いを教えて下さい。
宮城 私は幼少期からウルトラマンや怪獣に心惹かれていたので、同じような感覚でシーサーは直感的に格好良いと感じていました。文化的背景に関心を寄せたのは、祖父と父の存在が大きいですね。
私の祖父は竹富島の初代町長を務めました。竹富島では、祖父が定めた厳格な景観保護条例により、今でも島民以外の交通手段は自転車、徒歩、水牛車しか許されていません。また、祖父は琉球政府文化財保護委員長も務めており、柳宗悦ら民藝運動の中心人物に沖縄文化を紹介しました。岡本太郎を久高島に招き、ノロ(祝女)と呼ばれる生ける神の存在に引き合わせたのも祖父でした。岡本太郎はその後、著書の『沖縄文化論』で久高島を取り上げています。
私の父は画家で、シーサー作家でもありましたが、こけし職人に和紙への平面描写を依頼したり、製作途中の作品を流通させたり、柔軟で先鋭的な試みを、当時から自然にやっていました。
徳永 そもそもシーサーとは何なのでしょうか?
宮城 元来、獅子像は王権の象徴、あるいは宗教的権威の象徴で、寺院や宮殿の入口などに設置されるのが通例です。沖縄ではこの獅子像が地域社会に浸透し、民家の屋根の守り神に変容しました。
こうした思想の背景に、沖縄の自然崇拝が深く根づいていると感じます。象徴的存在が「御嶽(うたき)」です。御嶽は、祠や建造物を伴わず、特別な標識もない、純粋に自然の空間でありながら、信仰の対象とされています。こうした原初的宗教観が色濃く残る沖縄に、獅子像という外来の文化が導入された際、本来は王や支配者を象徴していた存在が、民間にまで広く行き渡り、民衆の守護神として再定義されたのです。
ここからは、私の主観的な説明ですが、シーサーは魔除けではなく「守り神」です。よくシーサーは魔除けだと説明されるのですが、私の師匠は、シーサーは「魔を除ける」のではなく、「魔を浄化する」存在と考えていました。沖縄県外には、獅子像、狛犬、鬼瓦など魔除けとされる存在が各地にあります。ですが、仮にそれらすべてが魔を排除する存在ならば、悪しき存在は行き場を失います。沖縄には「まじむん」と呼ばれる悪霊がいますが、沖縄の人々にとって「まじむん」は排除の対象ではなく、悪意や災厄を和らげて善なるものへと変容させ、共に生きていこうという、大陸と日本の間に挟まれた小さな島国ならではの思想があります。
シーサーの表情も威嚇的で恐ろしい形相ではなく、温かみや包容力を宿す必要があります。私の師匠は、その心の在り方を「チムグクル」と表現しておりました。「チム」は沖縄の言葉で肝、「グクル」は心で、「思いやり」という意味を含みます。迫力の中にも相手を想うあたたかな感情がシーサーの表情に宿るべき本質的要素であると教わりました。
不要なものを神に昇華する
宮城 もう一つ、シーサーは「ごみからできた神」でもあります。「まじむん」のように不要なものや困りものを、神として造形する点に日本・沖縄文化の根幹があると私は捉えています。一般的に神仏のような聖像を制作する際は、最上級の素材を用いて荘厳な技術で制作することが当然視されます。仮にミケランジェロが廃材でキリスト像を作ろうとすれば、冒涜と受け取られたかもしれません。しかし沖縄においては、破損した瓦でシーサーを作ることを当然の営みとして受け入れています。リサイクル(単なる再利用)を超えたアップサイクル(元の製品よりも次元・価値の高いものへ再利用すること)が実践されています。
徳永 究極の価値創出ですね。
宮城 まさにそうです。不要なものを除去するのではなく、より良いかたちに転換する。そこで神を生み出すという行為に至った点が、宗教観と芸術観が結びついた文化実践でもあります。
実は、こうした廃材の活用は民間主導ではなく、時の支配階級でも受け入れられていました。首里城の屋根上の龍や獅子像も焼物になる以前は漆喰が活用されたそうです。首里城の施工をした職人たちは、各々の町に戻ってこの技術を転用し、施主への謝意としてシーサーを造形した。そう考えると、極めて沖縄らしい、緩やかで実践的な始まりだったのではないでしょうか。
これはある意味で、芸術の本質的価値にも通じる発想だと思います。真っ白なキャンバスに、シンプルな画材だけで、いかに高次の価値を立ち上げるか。それは現代芸術が追求してきた核心的なテーマの一つですが、沖縄の職人たちはそれに近いことを自然に実践していたのです。
2019年に焼失した平成首里城の瓦礫から生まれたシーサー。首里城公園に設置。背景のシーサーの絵は、同じく平成首里城瓦礫の炭から作られた首里城黒墨で製作
首里城の瓦礫から世界最大のシーサーを作る
徳永 伝統とは何でしょうか。
宮城 私にとって伝統とは、3つの「ち」だと思っています。1つ目は土地の「ち」。2つ目は血の「ち」。3つ目は知の「ち」です。
例えば、生まれも育ちも沖縄の私では、江戸の粋も京都の雅も表現することはできません。けれど、沖縄の素朴で力強い何かは、表現できるかもしれない。それが、伝統の核です。伝統は守るべき存在ではなく、その土地と、その魂が育んだ特性を、現代に生かすかが本質と考えています。
そもそも何千年も受け継がれてきたものを、数十年も生きていない私たちが守るというのは傲慢です。むしろ「生かさせていただく」という発想が重要だと思います。時間の蓄積の中に、自分がどう関与できるか、その中で、いかに楽しみ、伝え、継続の流れに参画するかが重要です。
それを考えると、伝統とは必ずしも血に依拠するものではなく、その土地の気候、空気、人間関係、そして記憶の蓄積によって生じるものでしょうし、そこに長く関与した人間であれば、仮に出自が地元でなくても、伝統の担い手になり得るのではないかと、私は思います。
徳永 その伝統を受け継ぐ上で、どんなことを重要視していますか。
宮城 背景にある意味や面白さを、現代の文脈でどう再構成するか。かつて使われていた技術や素材の意義を踏まえ、現代社会にふさわしい形に昇華させる責任が、我々継承者にはあります。過去と同じものを作るのは、ただの模倣です。
かつての作品が当時の最先端であったならば、我々が取り組むべきは令和の最先端です。スポーツであれば成績や記録という明確な指標が存在しますが、工芸の世界に可視化された指標は存在しません。売上で測るのであれば、TOTOが世界最高の陶芸家になってしまいます(笑)
徳永 客観的な指標で判断できませんね。
宮城 たとえば素材の高低で価値を決めるのは無意味です。高価な備前焼の土を使って作ったシーサーは高価で貴重かもしれません。しかしそれは備前の価値であって、沖縄のシーサーの価値ではありません。素材が高級で造形も緻密だから優れている、という発想では、文化の本質を見誤ると思います。
沖縄の焼き物は有田焼や京焼に代表される精緻で優美な系譜とは一線を画しています。むしろ分厚く、大胆で、勢いのある造形こそが、沖縄における表現の本質だった。ところが、時代が下るにつれて、わかりやすい絵の巧さや技巧性が重視されるようになり、画家出身の陶芸家などが台頭してくると、「写実的な美しさ=価値」という基準が沖縄の中にも入り込んでしまった。
結果として、沖縄のシーサー文化もまた、日本本土や中国における獅子像(狛犬)のようなわかりやすい精巧さを求めて方向転換しつつあります。だからこそ、背景や文脈を把握し、物語として説明できる人間が必要です。それによって初めて、次の世代は「何を目指せばいいか」が見えてくる。
徳永 今後、何か作りたいものはありますか。
宮城 ご承知の通り2019年に首里城が炎上しました。私も直ちに現地に赴き、これまでの記録や構造資料を再調査しました。大きな災難ではありましたが、それを機に私は「世界一の首里城福光シーサープロジェクト」を構想しました。首里城の廃材を用いて世界一の巨大シーサーを作るという企画ですが、狙いはさきほど説明した「壊れたものを神にする」という沖縄独自の宗教観の体現と世界への発信です。
伊勢神宮の「式年遷宮」にしても、20年ごとに社殿を造り替えるという営みは、単なる破壊と再建ではなく、再生の循環です。神宮の旧材は全国の神社で再利用され、むしろ最も尊い材料として位置づけられます。首里城の瓦礫もまた、焼け落ちたから価値が失われるのではなく、むしろ次なる価値を宿すものへ生まれ変わる可能性を秘めています。
徳永 大阪・関西万博の大屋根リングを保存するか否かの議論がありますが、保存するかどうかの前に、本当に皆がこのリングを大切に思っているか、その価値判断の議論が抜けている気がします。
宮城 造形の意匠も極めて重要です。私が構想しているのは、エジプトのスフィンクスに始まり、シルクロードを経由して東アジアに至り、日本に渡り、そして沖縄に定着した獅子像文化が、再び新たなかたちで昇華されるというビジョンです。あえて口を開けたシーサーを一体作ることで、エジプトの口を閉じたスフィンクスと対比的な「あ・うん」の関係を打ち出したい。
単に瓦礫を再利用するというSDGs的発想を伝えたいわけではありません。時代も国境も宗教も超えてこの場所を見守ってきた空間の記憶と、人々の営みを象徴的に引き継ぐ形を生むこと。それが本来、沖縄のシーサー文化において最も重要な要素であると私は考えています。
徳永 素敵なお話をありがとうございました。
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