2018年の工業見本市ハノーバーメッセでは「インダストリー4.0」が注目されていたが、最近はこの言葉を見聞きしない[ハノーバーメッセ2018](写真はすべて筆者撮影)

 ドイツのフリードリヒ・メルツ政権は2025年5月、初めて連邦デジタル化・国家近代化省を創設し、民間企業の経営者を大臣に抜擢した。だがドイツのデジタル化はEU加盟国の中でも大幅に遅れており、新大臣の任期は困難なものになりそうだ。

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 ドイツは連邦制を採用しているため、権限の分散が日本以上に進んでいる。デジタル化に関する多くの権限も、複数の中央省庁、連邦政府、州政府、地方自治体に付与されている。ただしデジタル・インフラの整備など、中央で一つの官庁が包括的に担当した方が効率的な課題もある。2025年にデジタル化省が創設されたのはそのためだ。

 ドイツ連邦政府は、長年にわたりデジタル化を重視しておらず、2013年から2025年4月まで連邦交通省に担当させていた。この官庁は、「交通およびデジタル・インフラストラクチャー省(2021年~デジタル・交通省)」と呼ばれた。交通大臣がデジタル化担当大臣も兼任していたことになる。今回初めてドイツ連邦政府がデジタル化だけを担当する官庁を創設したことは、この国の政界でデジタル化という課題が格上げされたことを意味する。

民間企業の社長をデジタル化大臣に

 メルツ首相が大臣の座に据えたのは、小売企業セコノミー社のカルステン・ヴィルトベルガー元社長(56歳)だ。セコノミー社は、ドイツでは有名な家電量販店メディア・マルクトやザトゥルンなどを運営している。ヴィルトベルガー氏は、大手電力会社エーオンやボストン・コンサルティング・グループでも働いた経験を持つ。

 ヴィルトベルガー氏は、メルツ首相の知人だ。彼はキリスト教民主同盟(CDU)のロビー団体「CDU経済評議会」の副会長を務めた経験があるが、メルツ氏もこの団体で同じ役職を務めたことがある。つまりメルツ氏はCDU経済評議会で親しい関係にあったビジネスマンを、デジタル化省の大臣に抜擢したのだ。メルツ氏は他にも民間経済に詳しい人材を閣僚のポストに就かせた。カテリーナ・ライヒェ経済エネルギー大臣も、エーオンの子会社ヴェストエナギーで社長として働いた経験を持つ。

 ベルリンの中央官庁で働いた経験がないヴィルトベルガー氏にとって、この大臣職は人生最大のチャレンジである。デジタル化については、他の省庁にも部分的に権限が残っているため、デジタル化に関する政策は、他の省庁との綿密な調整、根回しを求められる。たとえばEU(欧州連合)のAI(人工知能)法への対応、製造業のデジタル化(インダストリー4.0、マニュファクチャリングXなど)、電力市場のデジタル化の権限は経済エネルギー省が持っている。サイバー攻撃に対する防御、デジタル・インフラストラクチャーの保全は連邦内務省の管轄であり、電子カルテについての権限は連邦健康省に付与されている。

 ヴィルトベルガー氏は、省庁の垣根を越えて進めなくてはならない政策、たとえば行政のデジタル化や、デジタル・インフラストラクチャーの構築など、個々の省庁の管轄範囲を横断する包括的な分野を担当する。

「EU27カ国中21位」――行政手続きの電子化の遅れ

 彼にとって最大の課題の一つは、行政の電子化である。ドイツIT・通信・ニューメディア産業連合会(BITKOM)が2025年8月に発表した「2025年度版デジタル経済・社会インデックス(DESI)」によると、ドイツの行政電子化の進捗度指数は13.9で、EU加盟国27カ国の中で第21位だ。首位のマルタ(23.9)、第2位のエストニア(23.0)、第3位のフィンランド(22.1)に大きく水を開けられている。

 私は2017年に、当時世界でデジタル化が最も進んでいる国の一つと呼ばれていたエストニアで、同国のデジタル化省(現エストニア・ビジネス・イノベーション庁)のショールームを訪ねたことがある。説明してくれた職員は、「エストニアでは婚姻届、離婚届、土地売買の手続き以外は、全ての行政手続きを自宅のPCで終えることができる」と語っていた。ちなみにエストニア政府は「2024年から婚姻届、離婚届も含めた全ての手続きをデジタル化し、行政手続きの完全電子化を達成した」と主張している。正にデジタル立国である。

エストニア政府のデジタル化省のショールーム[2017年]

 私が1990年から住んでいるドイツでは、とても考えられない。ここでは大半の行政手続きを行うために、役所に足を運ばなくてはならない。企業が道路や送電線、風力発電設備の建設許可を取得するための手続きでもデジタル化が遅れているため、長い時間がかかる。

 ドイツ産業連盟(BDI)が2022年10月に、27の業種における250件の許認可手続きにかかる日数を調査したところ、企業がプロジェクトを開始してから監督官庁が「必要な書類はすべて揃った」と企業に通知するまでに平均18カ月もかかることがわかった。さらに必要な書類が全て揃ってから、監督官庁が許可を交付するまでに、平均7カ月もかかっていた。BDIは、「ドイツの役所の許認可手続きを根本的に改革しなくてはならない」と指摘している。許認可にかかる時間が長くなる理由の一つは、許認可のプロセスがデジタル化されておらず、企業がプリントアウトした書類を提出しているためである。

光ファイバーの普及率は50%未満

 ヴィルトベルガー大臣にとっては、デジタル化の前提となるインフラ整備も重要な課題だ。たとえばドイツでは、インターネットに欠かせない光ファイバーの普及が遅れている。日本ではほぼ全ての家庭で光ファイバーが使える(2024年の整備率:97.09%)が、ドイツ連邦系統規制庁によると、2024年12月末の時点で光ファイバーを使える家庭・企業の比率は47%に留まっていた。残りの家庭や企業のインターネット回線には、今も銅が使われている。私のドイツの自宅に初めて光ファイバーが導入されたのは、2025年11月だった。私が住んでいるバイエルン州の農村部には、携帯電話の電波が届かない地域が残っている。

 日本では約100%の家庭でデジタル電力計(スマート・メーター)が使われており、市民は実際に使った電力量に基づいて、電力料金を支払っている。ところがドイツではスマート・メーターの普及率はわずか3%にすぎない。これはスカンジナビア諸国などに比べて大幅に低く、EUでも最下位に近い。大半の家庭では、今でも銀盤がグルグル回る、アナログ電力計が使われている。市民はこの電力計の数字を、紙に記入して電力会社に郵便で送ったり、電力会社のウエブサイトに入力したりする(ドイツでは電力や天然ガスの消費量は個人情報なので、エネルギー企業による検針はない)。電力会社は、前年の電力消費量に基づいて、次の年に毎月銀行口座から引き落とされる電力料金を決める。

 多くの日本人は、「欧州でGDP(国内総生産)が首位である経済大国ドイツで、なぜこれほどデジタル化が遅れているのか」と驚くだろう。その理由は、ドイツが機械製造、自動車製造など「もの作り」に重点を置いてきた結果、デジタル化が軽視されたことや、個人情報の保護を重視するあまり、デジタル・インフラの整備が遅れたためだ。ちなみにドイツ政府は2023年の法改正により、2032年までに全ての家庭・企業にスマート・メーターを設置することを義務付けた。

「カテナX」「マニュファクチャリングX」も盛り上がらず

 ドイツ連邦経済技術省(現経済エネルギー省)、ドイツ工学アカデミー、ドイツ人工知能研究センターは、2011年に製造業のデジタル化政策インダストリー4.0を発表した。現実世界の情報を仮想空間で再現するデジタル・ツインや、製品から得たビッグデータを分析し、新たなサービスを提供するスマート・サービスなどインダストリー4.0関連技術(もしくはIoT)は、BMW、シーメンス、フォルクスワーゲン、ボッシュなどの大企業では浸透しているが、企業数の99%を占める中小企業では普及していない。

 オランダのコンサルティング企業ベリングポイント(BearingPoint)とミュンヘン応用科学高等学校は、2024年1月に「インダストリー4.0を完全に実践した企業は、ドイツにまだ1社もない」という内容を含むアンケート結果を発表した(回答したのは、ドイツの製造企業104社)。

 この報告書によると、回答企業の96%が「製造業におけるインダストリー4.0の意味は、今後も増加する」と答え、81%が「今後数年間にインダストリー4.0関連技術に投資する方針だ」と答えた。つまりドイツ製造業界ではデジタル化への関心が高い。

 だが回答企業の中で「インダストリー4.0を完全に実施した」と答えた企業は1社もなかった。

 回答企業の73%が、「人間が行っているアナログ工程を機械によって代替しようとしている」と答えた他、69%が「製造に関するデータの収集、把握に取り組んでいる」と答えた。回答者の58%は、クラウドすら導入していなかった。つまりインダストリー4.0宣言から14年経った今でも、大半のメーカーは、デジタル化のための悪戦苦闘を続けている。

 私は2018年にバイエルン州のシュトラウビングにある自動車部品サプライヤーの経営者をインタビューした。彼は「顧客の製品使用に関するビッグデータを分析して、それを付加価値や収益につなげるスマート・サービスの重要性は理解している。しかしそれをどのようにして我が社で実現したらよいかわからない」と語っていた。

 BITKOMが552社のドイツ企業を対象にしたアンケート結果(2025年3月に発表)によると、回答企業の71%が「インダストリー4.0のための特別なアプリケーションを使っている」と答えたものの、26%がまだ導入していなかった。このアンケート調査によると、回答者の26%が「インダストリー4.0関連技術が世界で最も進んでいるのは中国」と答え、「ドイツが最も進んでいる」と答えた回答者の比率は12%に留まった。

 2018年に世界最大規模の工業見本市ハノーバー・メッセを取材のために訪れたが、当時のドイツの工業界は、インダストリー4.0一色だった。だが最近ドイツの論壇では、インダストリー4.0という言葉をめったに見かけない。ドイツの自動車業界が2023年に始動させた、デジタル・エコシステム「カテナX」や、そのコンセプトを機械製造業界などに拡大する「マニュファクチャリングX」についても、ほとんど報道されない。2025年10月1日の時点で「カテナX」に参加している企業・団体の数は176にすぎない。これはドイツ自動車工業会(VDA)の加盟企業(620社以上)の約28%に留まっている。

多くのメーカーは生き残りが先決

 現在のドイツの製造業界でデジタル化が進まない理由は、この国の多くの製造企業が深刻な不況に直面しており、従業員削減などによってコストの抑制に必死になっているからだ。デジタル化には多額の投資と、IT人材が必要だが、多くの製造企業は高い人件費や法人税、エネルギー費用の高騰、トランプ関税、スキルを持つ人材の不足、レアアースなどの戦略的資源の不足などに頭を痛めている。彼らにとって今優先順位が高い課題は競争力・収益力の改善であり、デジタル化ではない。

 こうした厳しい状況の中で、ヴィルトベルガー大臣がドイツのデジタル化を大きく進捗させられるかどうかは、未知数である。

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