日本経済の「死角」と「本丸」、そして「目の前のドラゴン」を直視せよ

2025年 私の読書

執筆者:唐鎌大輔2025年12月27日
 

 

河野龍太郎『日本経済の死角――収奪的システムを解き明かす』(ちくま新書、2025年)

 生産性というフレーズを耳にした時、「日本は欧米に劣後している」という印象を抱く日本人は非常に多いだろう。本書は冒頭からその思い込みを喝破する。

 過去四半世紀、米国は50%の生産性上昇に対し25%の実質賃金上昇を経験した。ドイツは25%の生産性上昇に対し15%弱の実質賃金上昇、フランスは20%の生産性上昇に対し20%弱の実質賃金上昇だった。そして日本は、30%の生産性上昇に対し実質賃金上昇はゼロであった。

 生産性の低迷は日本経済の宿痾のように指差され、上がらない賃金の真因だと多くの日本人が自責の念と共に考えていた。だが、生産性の上昇率自体は、日本は米国には劣後するものの、ドイツやフランスには負けていなかった。

 それでも賃金が十分上がってこなかったのは、高い生産性の下で儲かった利益が適切に労働者へ分配されなかったからだ、という指摘が本書の要諦の1つである。「生産性を向上させるためには構造改革が必要」との掛け声に反対する者はいないが、「そもそも生産性は本当に低いのか」を問いかけることも同じくらい重要なはずである。

 患部の診断を誤れば処方箋も誤る。本書はタイトル通り、日本経済を分析する上での死角を鋭くえぐり出す爽快さがあった。

渡辺努『物価を考える デフレの謎、インフレの謎』(日本経済新聞出版、2024年)

 日本経済と言えば、いよいよデフレからインフレへとシフトしていると感じる日本人は多いはずだ。これは日本経済の「死角」というより「本丸」の論点と言える。そうした時代の節目に差し掛かっているからこそ、物価研究の第一人者による本書は一読を推奨したい。

 インフレやデフレの何が良くて、何が悪いのか。なぜデフレが続き、なぜインフレが始まりそうなのか。これらの問いは筆者のような経済・金融分析を生業とする者でも「分かっていそうで分かっていなかった部分」だ。本書は最先端の研究内容などを紹介しつつ、「分かっていなかった部分」を掘り出し、丁寧に解きほぐしてくれる。

 日本において30年間続いた価格・賃金の据え置きの背景にノルム(暗黙のルール)が作用したことは、日本銀行からも頻繁に説明される点だ。この点、本書では、新型コロナウイルス発生時に日本が展開した自発的ロックダウンとも言える防疫措置と慢性デフレを重ね合わせることで、分かりやすく解説している。日本では「感染を防ぎたい」という目的に対し、欧米のように法律で強制力を担保することはしなかったが、代わりに“自粛警察”と揶揄される相互監視の仕組みによって行動規制に実効性が与えられた。

 この「自粛」に伴うノルムこそ慢性デフレを読み解くキーワードだと著者は喝破する。1995年以降の日本に目をやれば、「中国に負けたくない」という目的の下、労働者や労働組合が賃上げ要求を、企業は値上げを、それぞれ自粛するようになった。この際、監視役を果たしたのは賃上げに対しては経団連や有力企業、値上げに対しては消費者だったと著者は分析する。

 日本社会の強力な「自粛」ノルムは多くの日本人が理解するものだろう。裏を返せば、「皆が動けば動く」という空気が支配しやすい日本だからこそ、現下のインフレにはまだ先があるのではないかと感じさせられる。

渡辺努『物価を考える デフレの謎、インフレの謎』(日本経済新聞出版)

村野将『米中戦争を阻止せよ』(PHP新書、2025年)

 最近ではなお、経済分析の世界でも安全保障の知見が相応に求められる時代に入ったと痛感する。この点、米国の保守系シンクタンクに籍を置く日本人研究者による本書を推奨したい。

 本書は一貫して「米国はかつてほど強力ではない」という点を強調する。第二次トランプ政権による不規則な言動も、本書で解説される米国の台所事情を知れば多少は理解が進むだろう。長年にわたって国防予算の対GDP(国内総生産)比が低下し続けた結果、もはや米国は中国・ロシアという2大国と同時対決する資源が枯渇しつつあるという現実を、著者は戦力に対する細かな描写と共に力説する。

 当然、米国は中国への対処を最優先にしたい本音がある。米国の軍事力が衰えている一方、中国のそれは増強が著しいという差し迫った現実について、台湾有事の当事者になり得る日本人の危機感が薄い現状に著者は強く警鐘を鳴らしている。トランプ政権がロシアとウクライナ戦争を早く手打ちにしたい背景にも、来るべき台湾有事に向けて米軍の戦力を温存したいという本音があり、そこに向けて日本や欧州が協力するのは当然という発想が働いている。書中で著者と対談するエルブリッジ・コルビー米国防次官が「遠くでクマに襲われている人のことを心配するのではなく、自分の目の前にいるドラゴンを見よ」と日本に向けて警告しているのが非常に印象的であった。

 金融市場を大混乱に陥れた関税政策も、元を正せば「米国ばかり負担させられている」という不満に起因している。それは単なる不満ではなく、その負担により「米国が中国に軍事的に劣後する」という焦燥感に繋がっていると考えれば、関税政策に合点がいく部分もある。第二次トランプ政権の底流にある現実を理解する上で、極めて有用な1冊である。

村野将『米中戦争を阻止せよ』(PHP新書)

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。