邪馬台国論争といえば、古代史の華である。だから、考古学の新たな発見があれば、マスコミが放っておかない。今年五月、纒向遺跡(奈良県桜井市。ヤマト朝廷揺籃の地)の最古級の前方後円墳「箸墓」が三世紀半ばの造営であった可能性が出てきたと発表され、「邪馬台国はヤマトか」と、大騒ぎになった。邪馬台国の卑弥呼は、二世紀末から三世紀半ばにかけての倭国の女王。当然、「箸墓が卑弥呼の墓なら、邪馬台国論争に終止符が打たれる」と、期待は高まったわけである。 けれどもこれは、新たな迷走の始まりでしかない。 箸墓の造営年代を確定したとされるのは炭素14年代法だ。炭素に含まれる「炭素14」が、五千七百三十年で半減する性質を利用して、遺物にこびりついた炭素の中の炭素14の量を測定して、遺跡の年代を割り出そうとするもので、海外ですでに高い評価を得た手法である。 ただし、欠点がある。時代や地域によって、空気中に漂う炭素14にバラツキがあり、一定のスピードで遺物の炭素14が減っていくわけではない。これを補正した数値のグラフは出来上がっているが、年代幅がある。したがって箸墓の場合、正確には、三世紀半ばの造営とは特定できていない。百歩譲って、箸墓が三世紀半ばの造営だとしても、卑弥呼と箸墓を結びつける証拠は、なにひとつ出てきていない。にもかかわらず、「箸墓は卑弥呼の墓であり、邪馬台国はヤマトで決まった」と豪語する考古学者の発言は勇み足であり、新聞ははしゃぎすぎなのだ。北部九州論者が「畿内論者は、箸墓造営の時期を無理矢理三世紀半ばに合わせようとしている」と批難する気持も、よく分かる。

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