古滝屋の「原子力災害考証館」で、木村さんの捜索活動を再現した展示を前に語る里見さん=2026年1月28日、いわき市湯本(以下、写真はすべて筆者撮影)

 作り手のいない田を埋める太陽光パネル。かつての街並みが消え去った広大な更地。住民が避難先から戻らず居住者が1割近くに減った町。東京電力福島第一原発事故から15年、「復興」はどこにあるのか――。いわき市の温泉宿主人、里見喜生さん(57)がマイクロバスで案内する先々の風景だ。原発事故の後、宿泊客らを引率するスタディーツアーを始めて、現在までに参加者は全国から7000人を超えた。また、大学生一行を地元の市民や避難者たちと出会わせ、被災とは何かを「わが事」として考えてもらう取り組みも行っている。「東京からわずか200キロ余り先にある『終わらない』現実を、多くの人に知ってほしい」という里見さんのツアーに同行取材した。

田んぼを埋めつくす太陽光パネル、戻らぬ農家

「原発事故が起きると、地域というものがどうなるのか。皆さんの目と五感で体験してください」。1月末、福島県いわき市湯本温泉の老舗ホテル『古滝屋』の玄関前。午前10時過ぎ、里見さんがマイクロバスの助手席でマイクを握り、車中の大学生たちに語り掛けた。

 武蔵大学(東京)の社会学部教授、奥村信幸さん(61)が学生10名を引率するスタディーツアーの出発だ。毎年ゼミ生と東日本大震災の被災地・石巻を視察しており、初めて福島の原発事故被災地ツアーを学内で募集した。「在京の大学生は東京育ちが7割。福島視察は長い間、親たちの心配で実現できず、震災、原発事故への無関心につながってきた。現実に出合い、自分はそこにどう関わっているのかを見つけてほしい」と期待していた。

 常磐道を60キロ北上し、双葉郡富岡町(福島第一原発が立地する大熊町の南隣)へ。2011年3月の原発事故前は人口1万6000人で郡の行政、商業の中心だった。郊外の水田地域は17年4月に避難指示を解除されたが、大半で稲作は復活せず、里見さんが案内した農地は真っ黒な太陽光パネルで埋まっていた。「150年前から続く豊かな田んぼだった」と里見さん。農地は大規模な除染作業(放射性物質で汚染された表土の剥ぎ取り)で、代々肥やされた地力を喪失した。回復には多大な労力と年数を要するが、長い避難生活の間に担い手の高齢化が進み、農村を支えた近隣の共同体も消えた。「避難した農家の多くが二度と生業に戻らない」。

黒い太陽光パネルで埋まった田んぼの前で、大学生たちに語る里見さん(緑のジャンパー)=2026年1月27日、福島県富岡町

かつて4000人が暮らした街は更地に

 ツアーの一行は、原発事故で帰還困難区域とされた後、3年前に避難指示が解除された同町夜ノ森地区を訪れた。JR駅と商店街を中心に4000人が暮らしていたが、除染とともに無人の家並が解体され、今は更地が広がる。町が造った団地には建物も残っているが、避難したまま戻る人がなく雑草に埋もれる。現在、富岡町に住むのは工事関係者や移住者を含め、わずか2770人。「皆さん、ここに実家があると想像してみて。望郷の思いで自分の家に帰った年配者たちもいるが、もう暮らせないと諦めて公営住宅に移ったそうだ。私たちの文明社会でこんなことが起きてはならないのです」と里見さんは語り掛けた。

3年前の避難指示解除後、街並みが撤去され消えたままのJR夜ノ森駅前=2026年1月27日、福島県富岡町

「夜ノ森地区の現実を見て、ショックを受けない人はいないでしょう。『復興』って何なのか、それを遠い別世界の出来事にしていいのか、という疑問。そして、あなたは被害者、加害者のどちらか、被災した人々に何ができるのか、私たち自身にも語るべき体験はないのか、という問い。それらを迫られるから」。里見さんはツアーの狙いをこう話した。

 里見さんは古滝屋の16代目主人。原発事故で地元の観光が大打撃を受けた中、被災地を訪れる全国のボランティアを宿に受け入れ、現場に案内したのがスタディーツアーの始まりだ。本業の傍らNPO法人「ふよう土2100」を設立し、長期避難を強いられた双葉郡の障害ある子どもと親の居場所づくりに奔走した。いわき市内の避難先で孤立していた双葉郡の人々の入浴や地元市民との交流にホテルを開放するなど、ツアーと並行して活動を続けている。

避難先で「害をなす存在」と扱われた体験

『原子力災害考証館』は、里見さんが5年前にホテル9階の和室に開設した施設で、原発事故を地元の住民=被災者の視点から考える資料を収集・展示している。大学生たちを、双葉郡大熊町の第一原発近くの海辺を模した展示に案内した。砂の上に流木が何本も組まれ、古びた衣服の一部、少女の笑顔の写真、防護服姿の人々を写した壁一面のパネルがある。

 震災の津波で父、妻を亡くし、不明になった7歳の次女汐凪(ゆうな)さんを捜し続けた木村紀夫さん(現在はいわき市)とボランティアの姿だ。帰還困難区域となった現地に通って5年目に遺骨の一部と再会できた。こみ上げたのは「原発事故のために避難を強いられなければ、不明者捜索を断念することもなく、娘を助けられたかもしれない」との怒りだった。

「考証館開設には『国の応援を受けた地元の復興に水を差す』との声もあった」と里見さん。だが、木村さんの思いも託されたことで、人々の命、生活、人生、家族、そしてふるさとを奪った原発事故を、広島や長崎、水俣のように、当事者の体験から伝える場こそ必要だったと今は確信している。

 大学生たちには新しい出会いもあった。里見さんが交流の場にする古滝屋のロビーに地元の市民たちが訪れた。「あの日のことを思い出して話して」という学生らの依頼に、40代の母親が「自分が被災者と気づいたのは2年前」と語り始めた。大地震から3人の子を守り安堵したのも束の間、安全と信じた原発が事故を起こした。「逃げなさい」と関東に住む姉から電話で言われ、遠方の縁者の元に避難。到着するや否や、身に着けていた服や帽子を捨てられ、自分が「害をなす存在」だと認識させられた。次に頼った先でも、原発事故への価値観の違いが家族不和をもたらす様を目の当たりにした。そして2年前、旅行で訪れた九州で「大変な体験でしたね」と言われた時、初めて自分自身の心の傷を知って泣いたという。

帰れぬ避難者との対話で得た「気づき」

双葉郡から避難してきた女性たちの体験を聴く大学生たち=2026年1月28日、いわき市小名浜

 その後、双葉郡からいわき市に避難した人々を支援する市民団体の協力で、公営住宅などで暮らす年配女性たちとも対話した。大学生たちは最終日に古滝屋の一室で里見さん、引率の奥村さんと車座になり、それぞれの学びを持ち寄った。

 ある女子学生は、未除染地域にある自宅に15年間帰れない女性の話を聴き、その感想を語った。

「一度(立ち入り申請をして)防護服で家に戻る機会があったけれど、線量計がものすごい音でなり続け、色もついていない放射能がとても怖かった、と言っておられた。避難生活が続くことには『仕方がない』と繰り返し、『前を向いて生きるしかない』『でも、まだ腑に落ちないことは多い』とも。何と言っていいか、分からなかった」

 ある男子学生が話を聴いた高齢の女性は、やはり自宅のある地域の放射線量が高いままで、未除染の山にも囲まれている。「旦那とも話し合って、もう戻るまいと決めた」と語ったという。「『地元愛』が語られるのか、と思い込んでいたが、自分の知らなかった話が多く、どこまで踏み込んでよいのかも分からなかった。でも現実への気づきもあった」

 別の女子学生は「避難所でまず放射線量を測られ、服を着替えさせられ、『髪を洗って』と言われて、冷たい水道の水でシャンプーもなしで洗わせられた。夜寝ている間にも、測定器で測られていた」という元介護職の女性の話に言葉をなくした、と報告をした。

 よその土地で「避難者」という肩身の狭い境遇で暮らし、普段はもの言わぬ女性たちの一人ひとりが、他の地域の人間が想像もできないような体験を胸に秘めていた。そんな衝撃に出合いながら、さまざまな「気づき」があったと大学生たちは口々に語った。

「『私は我慢しなくては』と思いこみ、自分の苦しさを語れない人がたくさんいるのでは。そんな人ほど心の傷が深いのではないか。心の『復興』こそ必要なのでは」

「東京の人って、福島の被災地のことを知らなくても、ニュースを読まなくても、不自由なく生きていける。でも、たくさんの人のつらい現実を知った以上、自分も伝えなくちゃならないと思った」

スタディーツアーでの見聞を語り合う大学生たちと里見さん(手前)=2026年1月28日、いわき市湯本の古滝屋

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