二〇一〇年は平城京遷都千三百年の節目だ。大極殿も復元され、いよいよお祭りムードも高まってきた。 平城京に都が置かれた時代は、安定と繁栄の時代というイメージがある。『万葉集』に「あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」と歌われているからだろう。 だが、平城京には、これまであまり語られることのなかった歴史が隠されている。それは、天皇家と藤原氏の暗闘である。 そもそも、平城京は「天皇のための都」ではない。藤原氏が自家の栄華を誇示するための都であった。大極殿を見下ろす高台に藤原氏の氏寺・興福寺が建立されたのがいい例だ。 藤原氏は天皇に自家の女人を嫁がせ、産まれた子を天皇に据えた。平城京の主・聖武天皇こそ、藤原氏念願の「藤原の子」だった。しかも、母と皇后どちらも藤原不比等の娘という念の入れようである。律令(法)と天皇を自由に操ることによって、藤原氏は盤石の体制を敷いたのである。 藤原氏は、政敵を陰謀にはめて、容赦なく排除した。このため、藤原氏に逆らう者はいなくなった。こうして藤原氏は、わが世の春を謳歌していく。 ところが、ある時期を境に、聖武天皇は豹変する。 きっかけは、藤原不比等の四人の男子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が、天然痘の病魔に冒され一瞬で全滅したことだった。聖武天皇は藤原氏のコントロールが効かなくなり、藤原氏と対決していく。また、平城京を離れ数年間各地を転々とするなど、謎の行動を取った。

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