「王制論議」が示すタイ社会の地殻変動

執筆者:樋泉克夫2010年1月号

 十二月五日、タイのプミポン国王は八十二歳の誕生日を迎えた。高熱と食欲不振で九月から入院が続いていたが、この日は一時病室を離れ沿道の市民の歓呼のなかを王宮に戻り、祝賀に参上したアピシット首相以下政府高官を前に、「国家国民の永遠の繁栄こそが、我が幸せとするところ。皆が確固たる自覚と知識を持って公益を優先し、己の責務を誠実に全うすることによってのみ、我々に糧を恵む祖国に永続的な発展と繁栄とがもたらされることを心得よ」と語りかけた。
 前年に続き今回も無期限延期となったが、例年は誕生日前夜に参内して祝賀を述べる首相以下の「文武百官」を前に、国王は国の指導者としての在り方、国の行く末などにつき、時に数十分にわたって自らの考えを語りかけてきた。国を挙げて祝う国王誕生日を選び、首相以下に諄々と教え諭す姿は、国王こそがタイ国民にとって厳父であり慈父であることを内外に強く印象づけてきたようだ。

儀式的君主から政治権力者に

 一七八二年にトンブリ王朝を倒して現王朝を築いたラーマ一世が即位して以来、現国王まで九代を数える。歴代国王の中で最長在位(一九四六年即位)を誇る現国王の英明ぶりは、明治天皇と同時期に在位し一連の近代化を進め「大王」と尊称される五世王に勝るとも劣らないともいわれる。だが、即位当初から“国民の父”であったわけではない。
 現国王は父親の留学先のアメリカで生まれ、第二次大戦中はスイスのローザンヌで育ち、兄の八世王と共に戦後混乱期のタイに戻っているが、四六年、ナゾに包まれた事件が突発する。兄弟が二人だけで過ごしていた王宮の一室で銃声が響き、八世王の死体が横たわっていた。国王の不審死という大混乱の中、王室は躊躇することなく現国王の即位を決断する。
 当初、強力な軍人独裁政権下で、国王は多彩な芸術的才能を発揮する一方、五〇年に結婚したシリキット王妃との間に一男三女をもうけタイの新しい理想的な家庭像を国民にアピールし、専ら若き儀式的君主として振舞った。政治と距離を置く象徴としての存在は、軍人独裁者にとっては理想的な国王像といってよかっただろう。
 そんな国王が国政の前面に登場することになったのが、ヴェトナム戦争末期の七三年だ。長期化する独裁軍事政権は米軍支援を強める。これに猛反発した学生が決起し、タイ国政を担っていた国軍は大混乱に陥った。国論が二分される危機を収拾したのは、国王による学生支持表明だったといわれる。そのような国王の振舞いの根底に、ヴェトナム戦争の余波を受け国境を接するカンボジアとラオスの両仏教王国が崩壊したという現実があったことは否めそうにない。社会主義化の波を国境で押し止め、国論分裂を回避し、社会を安定させることは、そのまま王制護持の道にも繋がったわけだ。
 以来、国王は儀式的君主に加え、国内政治のバランサーとしての役割を積極的に担うようになるが、国王の政治的影響力を決定的にしたのが、八一年四月に陸軍若手将校が起こした反プレム首相のクーデターであった。国王がプレム支持を積極的に打ち出しクーデター陣営を瓦解させたことで、クーデターの成否を見守っていた政財界に加え国軍首脳すらもが“恭順の意”を示さざるをえなくなった。かくてプレムは国王の絶対的な支持を背景に政権基盤を盤石なものとし、手中に収めた国軍をガード役に長期政権(八八年まで)を維持。タイ内政の“危機管理”はプレム(=権力)と国王(=権威)の両者に委ねられた。以後、内政は両者の意向に沿う形で進められるのだが、両者も老境を迎えている。枢密院議長として国王を補佐してきたプレム元首相も、すでに八十九歳。そこに、二〇〇六年来続くタクシン対反タクシンを軸とするタイ内政の混乱の根本原因があった。

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