1987年のことだったと思う。フランスの援助政策を調べにパリに出かけた。日本政府代表部でOECD開発援助委員会(DAC)を担当している公使に会い、カフェで昼食をご一緒した。
「DACで途上国といえばアフリカのことをさす。そのなかで日本はただひとり、アジアにもまだ開発支援が必要だと言い続けている。アフリカに対して日本が援助しているのは、こういった国際援助に関する発言権を確保するための、いわば会費のようなものなんだ」
と話してくれた。1983年大旱魃のあとのアフリカ救済キャンペーンが世界中を席巻した直後のことで、とても印象に残っている。悪い意味ではない。30歳そこそこの若造に外交現場の一端を吐露してくれたと感じたし、「アフリカを救え」キャンペーンと援助政策は、協調は望ましいとしても、別物として考えなくてはならないと思っていたからだ。

 その後日本政府は1993年からアフリカ開発会議(TICAD)イニシアティブに乗り出し、対アフリカ援助には違う意味づけが与えられるようになった。そのターゲットは、いってみれば“票田としてのアフリカ”である。
 まだ学生だったころ、アフリカと関わりの深いある人から、札幌オリンピックを実現するためアフリカ票を取りまとめたときの苦労話を聞いたことがある。また、ジンバブエの大使館で専門調査員をしていたときに国際司法裁判所の日本人判事が来訪され、高名な法学者の謦咳に接することができてたいへん幸運だったのだが、これは、アフリカ各国に再選支援要請をするための行脚だった。TICADが背負っていたひとつの任務は、おそらく国連安保理改革のための下準備であった。
 だからTICADには、少なくとも2008年の第4回会議までは、対アフリカ援助について確たる政策論が欠けていた。TICADの専門家会合に初めて呼ばれたとき、そこにいたのはほとんどがアジアの専門家で、アフリカとはほぼ無縁の議論をしていた。端的にいえば「よさそうな案件はなんでもやる」という姿勢で、理念は高邁だが「アフリカを救え」と大差なかった。

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