日本人によるアフリカ開発支援は、その出発点において最高の人材をもった。1965年から71年までルワンダ中央銀行の総裁を務めた服部正也のことである。
 服部は1918年生まれ。東京帝国大学法学部を卒業したあと海軍入りし、復員後日銀に入行。IMFに出向してルワンダに派遣された。幼少時をロンドンと上海で過ごし、日銀時代にはミネソタ大学で学び、パリ駐在も経験した、国際経験豊かな大正人であった。ルワンダから帰国後は世界銀行の副総裁にまで昇りつめ、1999年に81歳で亡くなった。
 服部正也については以前本誌に書いたことがある。今回紹介したいのは服部の援助論である。

 服部にはルワンダ時代の奮闘ぶりを記した『ルワンダ中央銀行総裁日記』(中公新書、1972年)という著書がある。この本は毎日出版文化賞を受賞して18版を重ねたのち、永く絶版になっていたが、昨年中央公論新社から再版された。この本を初めて読んだとき、まず驚いたのは、銀行の帳簿をみて植民地体制の本質を見抜いてしまう服部の眼力の凄さだった。
 ルワンダのような場末の植民地経営は、そこに進出した本国企業に対する、いわば補助金行政のようなものである。宗主国の持ち出しがあってはじめて企業は儲かる仕組みになっていて、つまり、植民地経営そのものは赤字だった。異民族支配は決して割に合う“商売”ではない。アフリカのように利の薄いところではなおさらだ。これは、経済史学による帝国主義研究が明らかにしていることなのだが、学者が長年をかけて実証してきた真実を、服部は着任後即座に把握している。
 したがって、このような植民地が本国財政から切り離されると、当然財政は赤字になる。服部は、この赤字補填こそが「援助」にほかならないと考えた。となれば、植民地時代に作り上げられた資金の流れを抜本的に変革しなければ財政自立はありえない。独立国としての財政金融システムを構築してからでなければ、開発行政は実施しようがない。
 この認識に基づいて服部総裁は、甘やかされて弛緩した外国企業に課税し、その税収によって開発金融を新設して、現地企業や農民に融資を開始する。ルワンダ唯一の産業であった農業からあがる収益が、国民経済のために循環する制度を植え込んでいくのである。

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