ベルギーとイギリスの「秘密の関係」

執筆者:竹田いさみ2010年12月27日

 オルヴァル、ロシュフォール10、シメイ・ブルー……。有名なチーズの銘柄ではないかと錯覚しそうな名前だが、これらはすべてベルギーを代表するビールの銘柄である。それもカトリック教会のトラピスト修道会が、自前のトラピスト醸造所で生産したビールだ。世界中に7つのトラピスト醸造所があるそうで、その内、なんと6つの醸造所がベルギーに集中していると聞く。フランス、ドイツ、イタリア、ポルトガルはワインの産地として有名だが、レストランではベルギー・ワインについぞお目にかかったことがない。
 それもその筈で、残念ながらベルギーの気象条件では、ワインに適した良質のブドウを栽培できないという悲しい現実がある。このため止む無く穀物を使ったビール醸造に、やや大げさに表現すれば、国民一丸となって精を出さざるをえなかった。これらの銘柄以外にも、デュベル、ヒューガルデン・ホワイト、ドゥシャス・デ・ブルゴーニュなどが、ビール通には人気らしい。

金融、ダイヤモンド、ナチス

ロンドンとベルギーの首都ブリュッセルを約2時間で結ぶ高速鉄道「ユーロスター」(ロンドンのセント・パンクラス駅で筆者撮影)
ロンドンとベルギーの首都ブリュッセルを約2時間で結ぶ高速鉄道「ユーロスター」(ロンドンのセント・パンクラス駅で筆者撮影)

 やはりワイン生産には無縁で、ひたすらビールを作り続けた国がある。ドーバー海峡を挟み、およそ500年にわたって、ベルギーとの間で“秘密”の関係を築きあげてきたイギリスである。最初の秘密は、16世紀にまで遡る。イギリス王室を資金的に裏から支えていたのが、ベルギー(当時のネーデルランド)の古都アントワープで金融業を営んでいたユダヤ人社会であった。「悪貨は良貨を駆逐する」と発言した、と伝えられる金融家トマス・グレシャムは16世紀、アントワープに事務所を構えていた。ダイヤモンド形で有名な高級チョコレート「デルレイ」の本店所在地だが、グレシャムにとってはイギリス王室のために借金を工面する金融の町であった。当時のイギリスは貧しく、女王エリザベス一世は国家予算を捻出するために、アントワープでたびたび借金をしなければならなかった。グレシャム家は女王の父親ヘンリー8世の時代から、金庫番として王室に仕えた名門の一家である。グレシャムは、女王の代理人として派遣され、借金に奔走する毎日であった。  このグレシャム家にお金を用立てていたのが、ユダヤ人の金融業者たちであった。文豪ウィリアム・シェイクスピアの作品「ベニスの商人」にも登場してくるユダヤ人の金融業者は、ヴェネチアやアントワープを拠点に、ヨーロッパ大陸で金融ネットワークを築いていた。イギリスの借金体質は18世紀初めまで続いたため、およそ200年にわたってアントワープは、イギリス王室を秘密裏に支えてきたことになる。  イギリスにとって再びアントワープが登場してくるのは、19世紀後半になってからだ。ユダヤ人社会の秘密性、閉鎖性、信頼性に注目したのが、南アフリカの植民地を支配し、ダイヤモンドの採掘と貿易を独占した英政治家セシル・ローズであった。ダイヤモンド貿易を独占し、世界市場を牛耳るために「デビアス」を設立、ダイヤモンドの研磨と取引を、アントワープのユダヤ人社会に託す。ロンドンではなく、秘密を重んじるユダヤ人の閉鎖社会が息づくアントワープに、白羽の矢を立てたのである。イギリスは16世紀以来、王室予算という機密性の高い資金をアントワープで調達してきたため、ユダヤ人社会とは厚い、特殊な信頼関係で結ばれてきた。  しかし1930年代に、このユダヤ人社会が危機に直面したことがある。ドイツの独裁者ヒトラーによるユダヤ人迫害である。これを救ったのがイギリス政府であった。アントワープでダイヤモンド市場を支えてきたユダヤ人を、難民として一括して受け入れ、秘密性と閉鎖性に支えられてきたダイヤモンド市場を命がけで守り抜く。第2次大戦後に、これらのユダヤ人難民はアントワープに戻り、ダイヤモンド市場を短期間に再建することができた。  瓶内熟成で風味が磨かれる高級ビールの「オルヴァル」、深い味わいのある高級チョコレート「ゴディバ」や「デルレイ」には、ベルギーならではの“秘密”のレシピが隠されている。

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