多様化、分裂するアジア系アメリカ人
2000年4月号
「ユダヤ系からアジア系へ、一九九〇年代に、アメリカを支える主役が交替した」と語るのは、『産業社会の構造』などの著者、米国ジョージ・メイスン大学のセイモア・リプセット教授である。率直な表現ながら、時代の流れを的確に表現している。 生命科学で急成長中のインテグラ社(ニュージャージー州)では最近、中国系とインド系の社員が増加し、シリコン・バレー(カリフォルニア州)ではインド系がソフト開発で大活躍している。インド系の一部が母国インドに戻り、南部バンガロールの高度のハイテク基地形成の機関車役となっている。 毎年五月が「アジア・太平洋系アメリカ人の遺産を記念する月間」と設定されているが、初めてそれを祝った九三年五月、クリントン大統領は「最初の日本人がアメリカに到着したのも、中国人労働者の助力で大陸横断鉄道が完成したのも、ともに五月であった」とのべ、その意義を説明した。 アジア・太平洋系がアメリカで大いなるチャンスに恵まれたとのべる大統領は、同時に「差別の犠牲者でもあった」と認めている。多くのアメリカの歴史書は、大陸横断鉄道の建設への中国系労働者の貢献にはほとんど触れていないのが現状だ。 サンフランシスコをはじめ全米各地のチャイナ・タウンは、迫害から逃れる安全地帯の意味も持っていた。銀行、学校、寺院まですべてチャイナ・タウン内に設けたのは、迫害者との接触なしに、仕事と生活を完結させるためだ。日本人町や近年のベトナム人町にも同様の意味があった。
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