一九七一年、八月十六日午前九時半過ぎ。 大蔵省財務官、細見卓の部屋に、ラジオがあたふたと持ちこまれた。英語の短波放送を聞くためである。「午前一〇時(日本時間)から、ニクソン大統領が経済政策について重要演説するので、ラジオを聞いてほしい」という連絡が在日米大使館からあった。 ボイス・オブ・アメリカの放送の受信状態は極めて悪く、聞き取りにくかった。終了後、アメリカ大使館に問い合わせなければならないほどだった。 細見卓は、ドル・ショックの洗礼をラジオで受けたのだが、それは終戦の時の天皇の玉音放送と似て、音声的にはある種の未消化感を残した。 しかし、もっと消化しにくかったのは芯の部分、つまり肝心の内容だった。 演説の眼目であったドルと金の交換性停止という措置は、戦後のブレトン・ウッズ体制を根本から修正する契機を孕んでいた。しかし、日本の最初の反応は、もっぱら輸入課徴金(サーチャージ)に集中した。それが実行されると、日本から米国への輸出が大打撃を受ける。 細見にしても同じだった。「このニクソン演説がドル切り下げを意味するものだとは考えもしなかった」。 円切り上げ絶対反対の悲鳴が国内にこだましていた。「経団連挙げてですよ。円を切り上げたりすれば国賊ですよ。あの人たちに害になるものは国賊ですからね、日本的発想はいつも」。

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