変らぬレバノンの「宗派のパッチワーク」

執筆者:立山良司2000年8月号

 十三年ぶりに訪れたレバノンはすっかり変っていた。瓦礫の山だったベイルートのスポーツスタジアムは十月に開催されるサッカーのアジア・カップに備え新しくなっていたし、海岸には豪華なオフィスビルやホテルが立ち並んでいた。だが、ちょっと視点をずらすと内戦の爪あとがあちこちに残っていたし、繁栄の陰に宗教・宗派間の憎悪や不信感が潜んでいた。 レバノンには主要宗派だけでも十八あるといわれる。東西交通の十字路に位置するこの地域は古来様々な勢力の邂逅の地であり、レバノン山脈の深い谷は迫害を逃れた少数宗派に絶好の隠れ家を提供してきた。さらに第一次世界大戦後にこの一帯を支配したフランスが人工的に国境をひいた結果、宗教と宗派がパッチワーク状に入り組んだ現在のレバノンが誕生したのである。 一九七五年から九〇年までのレバノン内戦は、実に複雑なパワーゲームだった。その原因をあえて一つに求めれば、レバノン政治に独特な「宗派主義」に行きつく。宗派主義とは宗派ごとの人口比に基づき政治権力を分配するシステムだ。問題は、一九三二年に行われた人口調査をもとに、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンニー派、国会議長はイスラム教シーア派と決められ、国会の議席配分を含め、当時最大人口を誇っていたマロン派を核とするキリスト教徒に権力が集中したシステムが固定化し、手直しがまったく行われなかったことだ。当然、人口増加率が高いスンニー派やシーア派の不満が増大した。それにレバノンを拠点としたパレスチナ・ゲリラ各派や、イスラエルやシリアなどの外部勢力が介入し、戦闘当事者と戦線が毎日変るような内戦が十六年間近く続いた。さらにイスラエル軍は今年五月まで、南レバノンの国境地帯を占領していた。

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