レイオフ(一時解雇)を絶対的なタブーとし、それ故に社員から絶大な信頼を得てきたIBMが、レイオフに踏み切ったのは九二年のことだった。コンピュータのダウンサイジング(小型機への需要のシフト)に乗り遅れ、創業以来初の赤字に転落したのがきっかけだった。この事件は「IBMの凋落」と世界的に話題になったが、その波は日本IBMにも同時に訪れた。 この年、日本IBMは、かつて日本の企業史ではあり得なかった大胆な早期退職プログラムを明らかにする。管理職を含む五〇歳以上の社員が自発的に退職を希望する場合、(1)他企業への再就職、(2)独立・開業、(3)関連会社への転籍、(4)嘱託勤務、の四つの中からセカンドキャリアを選択するというもの。その際通常の退職金とは別に最高で年収の二年分に相当する「支援金」を支給するほか、独立希望者には会社設立のための必要経費を日本IBMが負担するなどの特典も用意された。 日本IBMにとって初めてとなったこの解雇プログラム策定のコアメンバーであったのが、元日本IBM人事部副部長の藤田邦威である。 当初一二〇〇人を予定していた早期退職者は、九三年六月の締め切りまでに一六〇〇人に達し、その中に藤田もいた。退社した藤田は、身体障害者を支援する授産施設の副所長へと転身して、自らもまた自ら策定したセカンドキャリアの道を歩き始めたのである。

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