負債総額約一兆八千七百億円を抱えて民事再生法を申請した大手百貨店、そごうグループの再建のため、次期社長含みで特別顧問に就任した和田繁明(六六)。金融業界を除けば戦後最大の倒産劇を演じた企業を蘇らせることが出来るのか、和田の一挙手一投足に注目が集まる。「僕は一度や二度、死にかけたから、もう怖いモノが無い」。和田の口癖だ。西武百貨店の社長レースに敗れ、失意のうちに系列の外食企業、レストラン西武(現・西洋フードシステムズ)の経営立て直しに取り組んでいた八四年春、和田は心臓の機能低下で倒れた。西武百貨店が医療機器販売の不正経理などで経営危機に陥った九二年に、再建役として会長の地位に呼び戻されてからも、ニトロは手放せない。 それでも従業員約一万人、取引先約五万社の生活を守るためにそごうに飛び込んだ。その原動力は「彼(和田)自身の名誉欲と堤清二への反発につきる」。西武百貨店の首脳はこう断言する。西武百貨店の再建をわずか三年間でとりあえず終え、バブル崩壊で痛めつけられたグループ企業の西洋環境開発の問題などに取り掛かった矢先に堤のグループ干渉が本格化した。 創業者の堤は九一年に引退したはずだが、和田ら当時のグループ企業首脳が作成した処理案に反発。堤自ら再建案を作成し金融機関とセゾン・グループに揺さぶりをかけた。これがグループ再建を迷走させる結果となった。金融機関と堤の間に挟まれた和田自身も、九九年には西武百貨店を去ることになる。結果的には堤の再建案は却下され、和田シナリオ通りに進んだ。だがもし、堤が干渉しなかったなら、グループの不良債権は「三年ほど早く処理できた。しかも、処理額は抑えられたはず」(準メーン行)とも言われる。

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