黒衣が表舞台に引き出された。高木邦夫(五六)。ダイエーの鳥羽董社長(当時)、川一男副社長(同)による系列企業ダイエーオーエムシーの株式取得問題に端を発したインサイダー疑惑でダイエー上層部が混乱。鳥羽、川が取締役に降格し、中内功会長も代表権を返上し最高顧問に退いた。社長、会長が一度に退任して生じたダイエーの「空位」は今も続いている。その不安定な体制の舵取りと経営再建を託され、顧問としてダイエー入りしたのが高木リクルート取締役だ。 十月八日夕。高木と中内の間でこんな会話が交わされたという。 高木「ビジネスのルールに則って仕事をさせてもらいますけどいいですか」 中内「高木さんのやりたいようにしてもらってええ」 高木「今回は一種のクーデターのようなものです。クーデターが失敗したのなら、その責任は鳥羽さんたちにとってもらいます」 中内「高木さんの言うとおり(鳥羽たちに)責任はもってもらわんと」 ダイエー幹部は「これまで中内の命令を忠実に遂行してきた高木が、初めて中内に注文をつけた瞬間だった」と振り返る。 高木はもともとはダイエー出身。一九六六年、大卒四期生としてダイエーに入社した。日本の高度成長と歩調を合わせ同社の業容も急拡大し、幹部候補生である大卒入社組はトントン拍子に出世していく。しかし高木の出世は早くはなかった。今回の騒動で社長代行となった大卒三期生の佐々木博茂らは、中内の腹心としてダイエー本部で経営の中枢に取り立てられた。が、高木は本部に引き上げられたものの「商品部でくすぶっていた」(ダイエーOB)。「営業部門の経験も浅く、とても幹部候補生には見えなかった」(ダイエーグループ首脳)という。

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