森内閣不信任案をめぐる攻防は、結局は何とも肩透かしな結果に終わってしまった。いち早く不信任案賛成を表明(最終的には欠席)して所属する江藤・亀井派を離脱した渡辺喜美衆院議員も、「一人で特攻隊やるわけにもいかないから、非常に残念だったよ」と、「加藤の乱」を総括する。「私と石原伸晃、塩崎恭久の三人は、十月下旬から森退陣、党総裁選の前倒し実施を求めていましたが、数を集められない我々は、国民に訴え、地方議員を巻き込んで党内を変える間接アプローチを取るしかなかった。派閥の親分である加藤さんは正面突破作戦に出たが、結局は子分の面倒を見なければいけない立場が災いしましたね」 一九五二年、故渡辺美智雄副総理の長男として生まれた渡辺氏は、中学一年生の時、父の話に「雷に打たれたような」感銘を受け、「親父のような政治家になりたい」と政治を志したという。早稲田大学政治経済学部、中央大学法学部を卒業、父の秘書を務め、父の死去に伴い一九九六年の衆院選に出馬、栃木三区から当選を果たした。「今の時代、親が政治家だったという理由で当選できる人はいない。ダメ二世は選挙で淘汰される」と氏に言わしめるのは、十数本提出した政策提言の七割に実現のめどをつけ、議員立法も五本中四本を通すなど、議員になって四年のうちに積み上げてきた実績から来る自信だろう。宮沢喜一、梶山静六などの政策通に先駆けて提言した優先株の買い取り機構の構想は、その後金融健全化法として実を結んでいる。

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