日本での辞任に追い込まれた四つの理由 ペルーのフジモリ前大統領はなぜ日本で辞任表明したまま帰国しないのか、辞任理由を説明できないのはどうしてなのか――今回の「日本亡命」劇はいくつものナゾに包まれている。一体何があったのか。リマと東京などの極秘情報を基に真相に迫ってみた。 亡命劇をめぐるナゾを解くには、フジモリ大統領(当時)が電撃的に早期退陣を表明した九月にまでさかのぼる必要がある。 大統領が九月十六日、三期目の任期途中で退く意向を表明した直接のきっかけは、その二日前の国家情報局(SIN)のモンテシノス顧問(当時)による野党議員買収ビデオの公表であることはいうまでもない。だが、見逃せないのは、大統領に早期退陣の決断を促したもう一つの有力要因として、米国の圧力があったことだ。リマの外交筋によれば、大統領は九月六日、ニューヨークの国連ミレニアム総会出席を機にオルブライト米国務長官と非公式に会談したが、その際、ペルーの民主化、SINの廃止と大統領選挙のやり直しを迫られたという。 フジモリ大統領は問題のビデオが公にされた後、早期退陣表明に加え、SIN解体法案を国会に提出する一方、軍のクーデターの可能性をちらつかせて抵抗するモンテシノス顧問と秘密裏に精力的な交渉を重ねた模様だ。その結果、同顧問をパナマに亡命させ、一切の刑事責任を不問とすることで合意が成立。これを受け同顧問は九月下旬ペルーを出国、パナマ入りした(同顧問は九月二十五日に解任される)。この時、フジモリ大統領が「一件落着」と思ったのは想像に難くない。

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