知られざる中台接近

執筆者:樋泉克夫2001年1月号

経済先行で「小三通」を実現させた大中華圏経済の躍動[香港発]台湾側代表の金門県知事が「対岸のアモイとの間のたった六キロの海を越えるのに、我われは五十二年もかかってしまった」とのことばを残し、二百人ほどの仲間と共に船に乗り込んだのは二〇〇一年一月二日午前九時。そして十一時五十分、一行はアモイ市の台湾問題担当者の出迎えを受け、大陸に待望の第一歩を印した。 思えば両岸の往来が絶えたのは、国共内戦が共産党の勝利に終わり、北京に中華人民共和国が誕生し、一方の主役である蒋介石が部下と中華民国政府を率いて台湾に遁れた一九四九年のことだ。以来、時に砲撃合戦を繰り返すまでに緊張した両岸関係も、七九年には転機を迎えることになる。 この年の元旦、北京は改革・開放政策に呼応させるかのように「台湾同胞に告げる書」を発表し、軍事対立を止め中台双方が直接、全面的に「通航、通商、通信」(「大三通」)を行い、経済交流を進めようと呼びかけた。一方の台湾は国民党の悲願である大陸反攻策の放棄を宣言すると共に、「三民(民族・民権・民生)主義による中国の統一」「民主・自由・均富の中国」で応じた。八七年十一月になると台湾が「探親(里帰り)」という形ながら一般台湾人の大陸訪問を解禁したことで、両岸の交流は本格化していった。九六年の台湾における最初の総統民選時にみられたように、台湾海峡に軍事的緊張が奔ったこともあるが、里帰り、観光、学術交流、投資などの“民間交流”は着実な拡がりをみせている。たとえば九九年をみると、台湾からの観光客は百六十万人。両岸の貿易総額は二百三十五億ドル。その大部分は台湾からの輸出であり、台湾からの投資総額は二十六億ドルに達している。じつは台湾は中国市場への外貨とハイテクを中心とする先進技術の供給源なのだ。いまや、台湾が誇るコンピューター企業の大部分が製造部門を大陸に移している。つまり経済的には、両岸は運命共同体となっているのだ。

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