強運の持ち主である。大蔵官僚時代、森昭治(五七)が事務次官クラスにまで上り詰めるとは誰も予想していなかった。旧大蔵省四十一年入省組は財務省の武藤敏郎事務次官のほか、長野厖士元証券局長、中島義雄元主計局次長など人材の宝庫とされた。確かに森も一時は有力な財務官の候補に挙げられたこともあった。だが、駐米公使、証券局審議官を経て、九六年七月に東京国税局長で退官。損害保険料率算定会副理事長に就任した時、「役人としての人生」は終わるはずだった。 ところが、九八年十二月に急遽金融再生委員会事務局長に抜擢された。その間、破談寸前だった中央三井信託銀行の合併に奔走したほか、公的資金を注入した大手銀行に対する経営健全化計画のチェック、地方銀行の相次ぐ破綻処理などに積極的に取り組んだ。「韓国系、北朝鮮系の信用組合の処理でもひるまなかった」(金融庁幹部)と評価する声もある。 ただ、そうした評価の大半は、初代金融再生委員長だった柳沢伯夫時代に集中している。逆に、柳沢の後に越智通雄や久世公堯、相沢英之と金融保守派が相次いで委員長に就任してからは、居並ぶ保守派委員長にも忠実に仕えるあまり、金融行政への批判はむしろ高まった。とりわけ日本長期信用銀行の米投資ファンドへの譲渡、そごうの経営破綻などは政治問題に発展し、与野党の「森批判」にまで広がるほどだった。そうしたなかでの金融庁長官への就任なのである。

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