あえて書く「自民党への弔鐘」

執筆者:田勢康弘2001年3月号

日本が直面する危機の本質は、「政治の危機」というよりも、「政治指導者危機」というべきものに他ならない。ポスト森をめぐっては多くの名前が挙がっているが、「不毛の選択」でしかない。今こそ、「政治指導者」について根本から考え直すべき時である。 政治が乱れると言葉が急速に力を失う。力を失うだけならいまに始まったことではないが、ここまで政治が堕落すると言葉がまったく異なる役割を担うことになる。詭弁、嘘。内閣不信任決議案を与党の結束で否決しておきながら、「不信任案否決は信任を意味しない」などという詭弁を弄する。「総理の進退は他人がとやかくいうべきことではない。自ら判断すべきことだ」といいながら、陰で引きずり降ろす工作を進める。森喜朗首相のもとへ党幹部が押し掛け、土曜日の深夜、引きずり降ろし工作の大詰め。「九月の自民党総裁選を前倒し実施する」ことで合意し、これが事実上の退陣表明なのだという。言葉がここまで虚しく感じることは絶えてなかった。人材飢饉の政界ゆえに この動きの背景にあるのは「ゴルフで首になった総理といわれたくない」という政治指導者の意地と、何とか自ら身を引くという形にしたいという自民党の思惑だけだ。大雑把にいうと毎年一人国会議員が逮捕され、毎年一人内閣総理大臣が誕生する。こういう国も珍しい。逮捕される国会議員と、内閣総理大臣になる政治家の間にさほどの差が見つからないのである。運がよければ総理になり、運が悪ければ逮捕される。現にKSD汚職で逮捕された村上正邦は、逮捕されたりしなければ少なくとも参議院議長にはなっていただろう。

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