路上の天才ピアニスト

執筆者:大野ゆり子2001年9月号

 雨上がりに虹が見えた昼下がりのこと。夫と急ぎ足で行きつけの譜面屋に向かうと、その前に人だかりができている。カールスルーエの街を走る路面電車が軋んだ音をたてて遠ざかると、人々の背中の隙間から切れ切れにピアノの音が聞こえてくる。ヴァイオリンの辻音楽師はよく見かけるけれどピアノは珍しいなと思ったが、なお驚いたのは、かなり確かな腕前の主が、少年だったことだ。 通りの喧噪をよそに、鳶色の瞳の少年が、やはり鳶色の巻き毛を揺らしながら、一心不乱にショパンを奏でている。足元には「ピアノを買うのにご協力を」と下手なドイツ語で書かれた段ボールの切れ端と、硬貨でずっしりと重そうな籠がある。ピアノはおんぼろだったけれど、少年の弾き方には、どこか人を捕らえて離さないところがあり、普段なら労働許可に口やかましい警察官でさえ、ショパンの調べにうっとり聴き惚れ、十マルク紙幣を籠に入れていた。 少年の才能のレベルは、大道芸人の域をはるかに脱している。一体どうしてこんなところで弾いているのだろう。少年のそばの父親らしき人物に、夫は片言のクロアチア語で話しかけてみた。こういう時にスラブの言葉は似通っていて便利である。彼らがブルガリア人であること、男の子が十三歳で、自国のピアノコンクールで優勝していることがなんとか理解できた。ブルガリア人の友人に通訳を頼み、翌日、劇場のピアノで弾いてもらう約束をする。

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