【ブックハンティング】

執筆者:増井朔2001年9月号

 完全失業率が史上最悪の五%を記録した。製造業大手は競うかの如く大リストラを発表し、日経平均株価はバブル経済崩壊後の最安値を更新、銀行の含み損は拡大し……。日本経済は、というより、日本全体が底無し沼のような深みにはまってしまって脱け出せないでいる。そんな「堕ちていく」時代の雰囲気は、小説の世界にも伝染している。 昨年、芥川賞を受賞した松浦寿輝の最新作『巴』は、堕ちていく危うさと甘やかさを存分に描き出した秀作である。「形而上学的推理小説」と謳う帯に偽りはない。もっとも、「形而上」はあくまで隠し味にとどまるので、この三文字にアレルギーのある方にもおすすめできる。淫靡なエロチシズムを伴った謎解きもの。そう、戦前のフランスに端を発するフィルム・ノワールの嫡子のような小説である。「もう三十をいくつも過ぎたすれっからし」の元インテリ、主人公の大槻は、詐欺まがいの商売から足を洗い、金持ちの人妻を相手に紐のような生活をしている。本郷、根津の界隈を巡るうち、古ぼけた洋館に引きずり込まれ、高名な書家を名乗る老人から少女ポルノもどきの芸術映画の完成を託される。「ひょっとしたらこの妙ちきりんな仕事のオッファーこそ、ここ何年か待ち望みつづけて得られなかった、人生の転機のための絶好のきっかけなのかもしれないという幻想が薔薇色の靄のように心の中に広がり」……。当然、そんな旨い話はない。わけもわからぬまま暴行を受け、傷を負った大槻は、消えた老人と少女と女を追ううちに、政界ともつながる裏組織の存在に行き当たる。

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