新たな火ダネを投げ込まれたカシミールの悪夢

執筆者:浅井信雄2001年11月号

 一五八六年、強力なムガル・イスラム帝国の支配下に入り、皇帝ジャハンギールが「永遠の春の園」と愛した風光明媚のカシミールは、インドとパキスタンが半世紀余の領有争いをしてきたが、二十一世紀初頭のいま米国の「テロとの戦い」に巻き込まれ始めた。 ムガル帝国の以前、カシミールは南アジア、中央アジア、中国との交通の要路にあたり、ヒンドゥ教、仏教、シーク教、ラマ教も栄えた。中心都市スリナガルのシャー・ハマダーン・モスク(イスラム礼拝所)は仏舎利塔に似ており、仏教文化の影響が濃い。民族的には、インド・アーリア系が多いほかモンゴル系、漢系、チベット系、トルコ系など多様である。 十八世紀以降、ドゥラーニ王朝(アフガニスタン)やシーク王朝の支配を受けたカシミールが、遠来の英国に制圧されるのは一八四六年である。すぐジャンム地域の藩王グラブ・シン(ヒンドゥ教徒)がカシミールの土地を買い上げたため、ヒンドゥ教徒の藩王が多数のムスリムを支配するという不安定な王国が誕生する。 当然ながら英国の絶対統治権の下で英国王室に直属して忠誠を誓い、外交と防衛を委託するかわりに、若干の自治を認められた。一九四七年、英領インドからヒンドゥ主導国家インドとイスラム主導国家パキスタンが分離独立する際、悲劇のタネがまかれる。

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