一〇月一六日に福岡市で始まった第五四回新聞大会。式典で挨拶に立った渡辺恒雄・日本新聞協会会長(読売新聞社長)は、長野県知事の田中康夫が五月に「脱・記者クラブ宣言」したことについて「地方政治家の発作的な行動だ」と切り捨て、記者クラブの役割について「一般読者にも容易に理解を得られるように新聞協会の見解の全面的な見直しを進めており、年内には答申がまとまる予定だ」と述べた。 新聞協会で記者クラブについての見解を検討しているのが編集委員会記者クラブ問題小委員会だ。新聞社の局次長クラスで構成される小委員会のメンバー有志は、新聞大会の四カ月ほど前の六月三〇日、ある人物と非公式に面談していた。その人物とは竹内謙・鎌倉市長(当時)だった。メンバーは、「鎌倉のその後」をしきりに聞きたがった。 鎌倉のその後……。 竹内は、市長に当選して三年目の一九九六年二月、記者クラブに対する市役所内の部屋や設備の提供を止める旨を、新聞などマスコミ六社の市政担当記者でつくる「鎌倉記者会」に提案した。新たに「広報メディアセンター」を開設して記者クラブに加盟していないメディアにも開放し、電話やコピーの利用料金は実費負担してもらう。さらに市長会見は、それまでの記者クラブの主催から市長主催に改めるともした。日本で初めて記者クラブに突きつけた“記者クラブ無用論”だった。

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