一四年ぶりの再会だった。「僕、痩せたでしょう。一〇キロも減量したんだ」。たしかに往時は、ふっくらとした顔に黒縁の眼鏡をかけ、「お父さん」然としていたのだが、現在では研ぎ澄まされた老将の雰囲気を漂わせている。 公正取引委員会委員、本間忠良。といっても役人出身者ではない。かつては三菱電機のサラリーマンであり、現職に就くまでは千葉大学法経学部で教鞭をとっていた。カラーテレビを展示販売方式で一日に四億円分売ったりする凄腕営業マンでもあった三菱電機時代だが、そのほとんどは法務畑で過ごしてきた。本間が、日本企業の国際進出を陰から支えた「戦略法務の構築者」と呼ばれるゆえんだ。 一九八六年三月、一六年間にわたって争われ、本間が「ハーフ・ライフ・ワーク」として取り組んできた訴訟で、米最高裁は三菱電機側の勝訴のみならず、それ以後のアメリカの通商政策を大きく転換させる歴史的判決を下す。本間に最初に会ったのは、その翌年だった。当時書いた記事を読み返すと、そこには現在に通じる優れた問題意識とコメントがいくつも見出せる。「日本企業は、その特殊性を世界に理解させながらアメリカ的になることが国際化だと思ってきた。しかしもはや特殊性も、アメリカ的であることにも見直しが始まっている」「半導体のように商品自体が世界共通、いや世界そのものになってきている時代に必要なのは世界共通の新しいビジネスの論理ではないか。国際化ではなく世界化です」

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